ソロモンの格言集14章
聖書の箇所は、14章1節から35節です。
●1節.知恵ある女は家庭を築く。無知な女は自分の手でそれをこわす。
ここを言い換えると、知恵ある女はその家を建てるが、愚かな女は働かないので、自分の手でそれを壊してしまう、と言うことでしょう。
女性の家における役割の大きさを表しているのでしょう。
ということで、神から権威を与えられている夫(父)は、パートナーである知恵ある妻の助言に耳を傾けるということが重要になります。
もし家庭におけるかしらである夫(父)が、権威だけを振り回すなら、家庭が破綻して多くの痛みを経験することになります。
その庇護の下にある子どもたちは不安になり、最悪、家庭を壊してしまことになるでしょう。
それゆえ夫婦はお互いに主を恐れる者として、家庭を守る知恵を聖書から学び、賢明な判断と態度によってそれを現実的なものとしなければなりません。
●2節.主を畏れる人はまっすぐ歩む。主を侮る者は道を曲げる。
新改訳は、「まっすぐに歩む者は、主を恐れ、曲がって歩む者は、主をさげすむ。」です。
まっすぐに歩む者(主を知る者)は主を恐れる、曲がって歩む者(主を知らない者、侮る者)は、その言葉(知恵)を知らぬゆえ主を侮るのです。
主を恐れるものは知識の初め、とあるように、まっすぐに歩む者は主を恐れます。
●3節.無知な者の口には傲慢の杖。知恵ある人の唇は自分を守る。
新改訳は、「愚か者の口には誇りの若枝がある。知恵のある者のくちびるは身を守る。」です。
この「若枝」は、他の訳では「杖」または「むち」とも訳されているそうです。
つまり、愚か者は誇りますが、その後に来るのはむち、懲らしめと言うことでしょう。
逆に「知恵のある者(主を畏れる者)のくちびる」は、用心するのでその身を守ります。
●4節.牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが/豊作をもたらすのは牛の力。
重要なことで、当然のことを言っています。
雄牛がいなければ飼い葉桶は清潔ですが、雄牛の働きがなければ、豊作ももたらしません。
きれいな水に魚は住まずと言いますが、何を優先するかを間違えたらいけません。
雄牛がいなくてきれいだと喜ぶのが目的か、豊作になりみんなが豊かになるのが目的かです。
何かをすれば必ず雑然とするのです。整理は大切ですが、もし整理整頓することを優先させれば、物事は何もはかどりません。
●5節.忠実な証人は欺かない。欺きの発言をするのはうそつきの証人。
新改訳は、「真実な証人はまやかしを言わない。偽りの証人はまやかしを吹聴する。」です。
真実な証人は嘘をつくことはなく、偽りの証人は嘘を並べる。ここはその通りですね。
●6節.不遜であれば知恵を求めても得られない。聡明であれば知識は容易に得られる。
新改訳は、「あざける者は知恵を捜しても得られない。しかし悟りのある者はたやすく知識を得る。」です。
主をあざける者が、ことの重大さに気がつて、その知恵の言葉を求めても得られない。しかし、主を知る者(聡明な者)は、知識を得ることがたやすい。
●7節.愚か者の前から立ち去るがよい。彼に知識ある唇を認めることはできない。
愚かなる者、つまり主を知らない者の前を離れ去れ、そこには、知恵の言葉はなく、愚かな言葉しか存在しないと言っています。
わたしたちは、何か知識が得られると思って、主が共におられないこの世の論者の意見を聞きますが、主は「離れ去れ」と命じておられます。
●8節.思慮深い人は自分の知恵によって道を見分ける。愚か者の無知は欺く。
新改訳は、「利口な者は自分の知恵で自分の道をわきまえ、愚かな者は自分の愚かさで自分を欺く。」です。
聡明な者の知恵は自分の道をわきまえていて、神のありがたみを知っているが、 愚かなる者は自分の愚かゆえに、自分を欺いているのです。
人に嘘をつくことはあっても、自分に嘘をつくことはできないと考えるますが、人は大丈夫ではないのに自分は大丈夫だ、と嘘をつきます。
●9節.無知な者は不遜で互いをなじる。正しい人は互いに受け入れる。
新改訳は、「罪過のためのいけにえは愚か者をあざけり、正しい者の間には恩恵がある。」です。
英訳では「愚か者は罪をあざけり楽しんでいる(Fools make fun of guilt NLT)」となっているそうです。
愚か者の間では、罪をあざけり楽しむ風潮がありますが、正しい者たちの間には恩恵(互いに受け入れること)があります。
●10節.魂の苦しみを知るのは自分の心。その喜びにも他人はあずからない。
新改訳は「心がその人自身の苦しみを知っている。その喜びにもほかの者はあずからない。」です。
心の中にある苦しみは心自らが知っています。「その喜びにもほかの者はあずからない。」ですから、その苦しみにある本当の喜びを悟ることの他の者はあずかれない、でしょう。
苦しみも喜びも心の中にあることは、他の人には完全に分かりえないのです。
他人に行ったところで、その苦しみにある本当の喜びを知るのは自分の心(霊と言っても良い)だけなのです。喜びとか苦しみを分かち合っても限界があるのです。
●11節.神に逆らう者の家は断絶する。正しい人の天幕は繁栄する。
この言葉通りだと、悪者は「家」を持っており、正しい者は「天幕」しか持っていないのです。
正しい者は天幕ですから、移動式の家屋であり、家よりは不便で、豪華さはありません。
と言うことは、正しい者の本当に家は天にあるから、この地上での家は、天幕でよいと言うことでしょう。それでも主は、祝福してくださるのです。
●12節.人間の前途がまっすぐなようでも/果ては死への道となることがある。
新改訳は、「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」です。
「まっすぐ」を正しいと読み替えて、人が見て自ら正しいと思う道でも、その終わりが死に至る道となることがあるのです。
愚かな者はその意味に気がつくことなく、終焉を迎えるのである。
●13節.笑っていても心の痛むことがあり/喜びが悲しみに終ることもある。
新改訳は、「笑うときにも心は痛み、終わりには喜びが悲しみとなる。」です。
笑う時にも、隠された心の悲しみがあり、喜びも終わりには悲しみに終わることもあるのです。
自分の目に正しいと思うことを行なっていくと、笑いは心痛に変えられ、喜びもいつか悲しみへと変えられていくと解説されていました。
笑いがあっても、心が癒されるような真の喜びから出る笑いではないのです。
本当の笑いと喜びは、主が共におられるときに訪れるのでしょう。
●14節.二心ある者は自らの道に/善人は自らの業に飽かされる。
新改訳は、「心の堕落している者は自分の道に甘んじる。善良な人は彼から離れる。」です。
解説には、心の道理にそむく生き方をする者は、その仕業(行い)の実を刈り取り、善良な人もまた、その行いの実を刈り取る、とありました。
道理にそむく者と、道理に従う者では刈り取る収穫が異なるのです。
「彼から離れる」というのは、別の訳で「上から満足する」とありました。
つまり、道理に背くのを堕落とすると、堕落した者は自分の道に満足するが、善良な人は上からですから、神から賦与された道に満足する、ということでしょう。
●15節.未熟な者は何事も信じこむ。熟慮ある人は行く道を見分けようとする。
新改訳は、「わきまえのない者は何でも言われたことを信じ、利口な者は自分の歩みをわきまえる。」です。
未熟な者、すなわちわきまえのない者は、何でも言われたことを信じる。熟慮ある人、すなわち利口な者は、用心深く行動するので自分の歩む道をわきまえる、ということでしょう。
何でも鵜呑みにするのは良くないと言っているのでしょう。
●16節.知恵ある人は畏れによって悪を避け/愚か者は高慢で自信をもつ。
新改訳は、「知恵ある者は用心ぶかく、悪を離れる、愚かな者は高ぶって用心しない。」です。
知恵あるものは用心深く行動して、その悪に気が付いて離れるが(畏れるとありますから、悪の原因から)、愚かな者はみずから、高ぶって(謙虚に顧みないので)その行動が修正することはなく用心しない。
●17節.短気な者は愚かなことをする。陰謀家は憎まれる。
新改訳は、「短気な者は愚かなことをする。悪をたくらむ者は憎まれる。」です。
「短気な者は愚かなことをする。」とあります。逆に賢き者は忍耐強いと言うか用心深いので、その行動にブレーキをかけるのです。
短期で怒りやすいということは、自分が正しいと思っているから、すなわち、自分に誇る、自信を持っていることに起因します。だから16節に「愚か者は高慢で自信をもつ。」とあります。
それでは、17節の「愚かなことをする」と言うのは、短気なために怒ると、たとえそれが初めはもっともな理由であったとしても、どんどん誤った方向へ自分を向かわせます。
そして自分自身が、自分がかつて怒ったその悪を行なうことになってしまうのです。
だから16節にあるように、「知恵ある者は用心ぶかく、悪を離れる、とあるのでしょう。
●18節.浅はかな者は無知を嗣業とし/熟慮ある人は知識をその冠とする。
新改訳は、「わきまえのない者は愚かさを受け継ぎ、利口な者は知識の冠をかぶる。」です。
わき前のない者(浅はかな者)は愚かなことを自分のものとして(身を破滅させ)、「利口な者は知識の冠をかぶる。」ですから、さとき者は知識の言葉を学んで、生きる意味を悟るのでその意味を冠とする、と言うことでしょう。
私たちがわきまえを持つか持たないかで、その後の人生が大きく変わります。
愚かさを受け継ぐか、それとも知識の冠をかぶるかのどちらかなのです。
●19節.神に逆らう者は神に従う人の門の前に/悪人は善人の前に、身を低くする。
新改訳は、「悪人はよい人の前で、悪者は正しい人の門のところで身をかがめる。」です。
簡単に言うと、やがて悪人は善人の前に、すなわち、悪人は正しき者の入る門のところで身をかがめてひれ伏すことになる、と言うことでしょう。
支配するのは正しい人であり、悪者はそこでひざまずくようになるのです。
現世を見ていれば、とてもそのようなことは考えられませんが、後に来る世ではこのとおりになるのでしょう。
●20節.貧乏な者は友にさえ嫌われるが/金持ちを愛する者は多い。
コヘレトは、これが現実だと知っていたのでしょう。
次の21節を読むと、その現実に甘んじてはいけないと言っています。
おそらくこの箴言の著者コヘレト(実際はソロモン)は金持ちでしたから、多くの人が廻りを取り巻いていたのですよう。
●21節.友を侮ることは罪。貧しい人を憐れむことは幸い。
新改訳は、「自分の隣人をさげすむ人は罪人。貧しい者をあわれむ人は幸いだ。」です。
隣人とは身近な人、その人がたとえ不都合な人であっても、節度を持たなければなりません。
そして(その内情を知って)貧しい人を憐れむことは、幸いですから、主に喜ばれると言うことでしょう。
●22節.罪を耕す者は必ず迷う。善を耕す人は慈しみとまことを得る。
新改訳は、「悪をたくらむ者は迷い出るではないか。善を計る者には恵みとまことがある。」です。
悪を企む者は「迷い出る」ですから、己を誤る。善を計る者は、慈しみなる心と、誠をもち、人々にその言葉を届ける、でしょう。
●23節.どのような苦労にも利益がある。口先だけの言葉は欠乏をもたらす。
新改訳は、「すべての勤労には利益がある。おしゃべりは欠損を招くだけだ。」です。
勤労とおしゃべりの対比です。
主に言われたことをそのまま実践していくか、それともただ口で議論しているだけで何の行動にも移さないか、の違いでしょう。
●24節.知恵ある人の冠はその富。愚か者の冠はその無知。
新改訳は、「知恵ある者の冠はその知恵である、愚かな者の花の冠はただ愚かさである。」です。
解説では、知恵ある者の冠は、その知恵の言葉を学ぶ意味にある。愚かな者の花の冠は、その愚かさのみである、としていました。
●25節.真実の証人は魂を救い/欺きの発言をする者は裏切る。
新改訳は、「誠実な証人は人のいのちを救い出す。欺く者はまやかしを吹聴する。」です。
真実を話す証人は人の命を大切に考え、その命を救う。欺きの言葉を吐く者は、「まやかしを吹聴」する、すなわち裏切る、と言うことでしょう。
●26節.主を畏れれば頼るべき砦を得/子らのためには避けどころを得る。
新改訳は、「力強い信頼は主を恐れることにあり、子たちの避け所となる。
神に従うと言うことは、「頼るべき砦」ですから、つねに安心感があるからです。そして、その子らにとっては、逃れの場を得ることになるのです。
●27節.主を畏れることは命の源/死の罠を避けさせる。
主を恐れることは命の泉であり、人を死の罠から逃れさせるのです。
さて、主を畏れることとはどういう意味でしょう。
新約聖書から見ると、主に対し「敬虔」ということであり、同時に「力強い信頼」と言うことでしょう。
そしてそれは「子たち」ですから、子孫にとっての「避け所」となり、祝福の「いのちの泉」ともなるのです。
ということで、両親の敬虔による「力強い信頼」は、子とその子孫にとってきわめて重要です。
それは神のご計画と密接なかかわりを持っているゆえに、すぐれた実を結ぶための最高の教育であり、保証だと言うことでしょう。
●28節.国が強大であれば王は栄光を得る。民が絶えれば君主は滅びる。
新改訳は、「民の多いことは王の栄え。民がなくなれば君主は滅びる。」です。
現在でも、自分の気に食わない民がいれば、それを殺すという独裁者、専制君主がいます。
しかし民の人口が減れば国力が衰え、いつかは滅びるのです。
民があっての君主だと言うことがわからない君主がいます。
昔も今も、王の栄えは民の多いことにあり、従う民がいなくなれば国は滅びるのです。
民心が重要なることで、民の心を裏切るような政治ではその体制は長続きしな。
●29節.忍耐によって英知は加わる。短気な者はますます無知になる。
新解約、「怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。」です。
再び怒りに対する戒めです。
怒りに任せると、道をふみはずすだけでなく、ストレスで身体にも悪影響を与えます。怒りをおそくする者は「英知を増し」ですから、我慢して、その意味が何であるかを理解することで、怒りを消すことができるのです。
それに比べて、気の短い者は我慢することができず、その過ちなる言葉を直ぐに話してしまい愚かさを(無知を)あらわにするのです。
●30節.穏やかな心は肉体を生かし/激情は骨を腐らせる。
新改訳は、「穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。」です。
穏やかな心は「からだのいのち」ですから、健康を保つためには必要です。
しかし愚かなる興奮(激しい思いは)は、身体はストレスにむしばまれ、その骨(基礎)を腐らせるのです。
●31節.弱者を虐げる者は造り主を嘲る。造り主を尊ぶ人は乏しい人を憐れむ。
新改訳は、「寄るべのない者をしいたげる者は自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う。」です。
「弱者を虐げる者」は、その弱者を造られた神様ご自身をそしりあなどることになります。
造り主を尊ぶ人は、乏しい人(貧しい人)を憐れむのです。
●32節.神に逆らう者は災いのときに退けられる。神に従う人は死のときにも避けどころを得る。
新改訳は、「悪者は自分の悪によって打ち倒され、正しい者は、自分の死の中にものがれ場がある。」です。
悪者はその悪しき行いによって滅ぼされ、正しい者(神に従って歩む者)はその正しきによって、「自分の死の中にものがれ場がある。」。
この「自分の死の中にものがれ場がある。」と言うのは、神の国に入ることが出来ると言う希望を指すのでしょう。
●33節.聡明な心では知恵は憩っているが/愚か者の中では自らを示す。
新改訳は、「知恵は悟りのある者の心にいこう。愚かな者の間でもそれは知られている。」です。
知恵は「悟りのある者の心」の中にとどまり、愚かなる者は、その言葉を閉ざしているが、愚か者でも、知恵は悟りのある者の心に憩っていることをうすうす分かっているのです。
●34節.慈善は国を高め、罪は民の恥となる。
新改訳は、「正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる。」です。
慈善(正義)と罪が対照されています。
慈善の盛んな国は文明的に栄えると言う思想は、ユダヤ・キリスト教的価値観に根底を持っているのでしょう。
●35節.成功をもたらす僕は王に喜び迎えられ/恥をもたらす僕はその怒りを買う。
新改訳は、「思慮深いしもべは王の好意を受け、恥知らずの者は王の激しい怒りに会う。」です。
「思慮深いしもべ」と言うのは、神に従う正しい人を指すのでしょう。
賢いしもべは、王の言葉の意味の重要性を悟るので、王の好意を受けるが、「恥知らずの者」は、王の言葉の真意を知らないので、王の怒りにあう。
« ソロモンの格言集13章 | トップページ | ソロモンの格言集15章 »
「箴言を読む」カテゴリの記事
- ソロモンの箴言(補遺)(26章)(2022.02.17)
- ソロモンの箴言(補遺)(25章)(2022.02.17)
- 有能な妻(31章)(2022.02.11)
- レムエルの言葉(31章)(2022.02.11)
- アグルの言葉(30章)(2022.02.11)
コメント