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2021年11月20日 (土)

ソロモンの格言集11章

聖書の箇所は、11章1節から31節です。
●1節.偽りの天秤を主はいとい/十全なおもり石を喜ばれる。
新改訳は、「欺きのはかりは主に忌みきらわれる。正しいおもりは主に喜ばれる。」です。

 

昔、市場で物を買うときにお店で秤を使っていたことがあります。
一方に重石を載せて、もう一方に品物を載せて、その品物の重さを量って値段を決めるわけですが、その重石を偽って、品物が実際よりも重く見せ値段を高く決めるという不誠実な商売人もいたようです。
この箇所は、商取引で、そのような不正をしてはいけない、という戒めでしょう。

 

●2節.高慢には軽蔑が伴い/謙遜には知恵が伴う。
新改訳は、「高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある。」です。

 

高慢は、神様が忌み嫌われます。
「高慢には軽蔑が伴い」ですが、誰もが高慢な人だと思っている人が、その人が思うところと違う扱いをされた場合、周りの人はその人を軽蔑してみるでしょう。その人は恥ずかしい思いをします。ね~。なぜって「思い上がって人を見下

 

●3節.正しい人は自分の無垢に導かれ/裏切り者は自分の暴力に滅ぼされる。
新改訳は、「直ぐな人の誠実は、その人を導き、裏切り者のよこしまは、その人を破滅させる。」です。

 

ここは、「裏切り者」が滅ぼされて、「正しい者」が救われるという対比が行われています。
「正しい人」(「直ぐな人」)は、その人が無垢(誠実)であることによって、それによって導かれる反面、よこしまは裏切者を破滅させるとします。

 

●4節.怒りの日には、富は頼りにならない。慈善は死から救う。
新改訳は、「財産は激しい怒りの日には役に立たない。しかし正義は人を死から救い出す。」です。

 

 

「怒りの日」とは、神が終わりの時に下される裁きのときのことでしょう。
どんなに財産を持っていても、神の怒りを鎮めることはできません。
逆に、正義(慈善)を行う者は、神に受け入れられ、永遠の命を得られる。

 

●5節.無垢な人の慈善は、彼の道をまっすぐにする。神に逆らう者は、逆らいの罪によって倒される。
新改訳は、「潔白な人の道は、その正しさによって平らにされ、悪者は、その悪事によって倒れる。」です。

 

潔白な人(無垢な人)が行う慈善は、「彼の道をまっすぐにする。」ですから、今、どんなに困難な状況にあったとしても、いずれは平らな道へと変えられます。
けれども悪者(神に逆らう者)は、その反対で、つまずきの石が多い道のままで、そのために最後に倒されます。

 

●6節.正しい人は慈善によって自分を救い/裏切り者は自分の欲望の罠にかかる。
新改訳は、「直ぐな人は、その正しさによって救い出され、裏切り者は、自分の欲によって捕えられる。」です。

 

「正しい人」(直ぐな人)は、その正しさ(慈善)によって救われます。
「裏切り者」は、自分の欲に囚われるのです。
すなわち、自分の欲を自分が欲求をコントロールするのではなく、欲が自分を支配するようになるのです。

 

●7節.神に逆らう者は力に望みをかけ、期待しても/死ねばそれも失われる。
新改訳は、「悪者が死ぬとき、その期待は消えうせ、邪悪な者たちの望みもまた消えうせる。」です。

 

「悪者」(神に逆らう者)は、自分の力に望みを置き期待するが、その人が死んだ時点でそれは終わります。
そして悪者に連なる「邪悪な者」たちの望みもそこで「消え失せ」ます。

 

●8節.神に従う人は苦難に陥っても助け出され/神に逆らう者が代わってそこに落とされる。
新改訳は、「正しい者は苦しみから救い出され、彼に代わって悪者がそれに陥る。」です。

 

「神に従う人」(正しい者)は、苦難に会っても神の世ってそこから救い出され、「神に逆らう者」は、神によってその代わりそこに落とされるとあります。

 

●9節.神を無視する者は口先で友人を破滅に落とす。神に従う人は知識によって助け出される。
新改訳は、「神を敬わない者はその口によって隣人を滅ぼそうとするが、正しい者は知識によって彼らを救おうとする。」です。

 

「神を無視する者」(神を敬わない者)は、口先で隣人を滅ぼすが、「神に従う人」は、その知識によって、その隣人を救う。
わたしたちは、一人では生きていけず、共同体の中に生きていますから、隣人との関係は、この世を生きるうえで大切なことです。。

 

この世は悪が支配していますから、わたしたちにはすぐに隣人と自分を比較し、不思議にも隣人に悪を行ないたい、自分の方が優位でありたいという欲望があります。

 

これはわたしたちの心の中の奥底(動機)が問われているのでしょう。
隣人が悪い境遇に陥れば、それを喜ぶどす黒い心があります。

 

しかし神と共にある知識はそのようなことをしません。
その知識は、逆に隣人が困難な中にあるならば、自分の力や与えられている知識を用いて、隣人を助ける方向に働きかけます。

 

●10節.神に従う人が幸いを得れば町は喜び/神に逆らう者が滅びれば歓声をあげる。
新改訳は、「町は、正しい者が栄えると、こおどりし、悪者が滅びると、喜びの声をあげる。」です。

 

「神に逆らう者が滅びれば歓声」とは、弱者を虐げている権力者がいなくなることを喜ぶという自然な感情を言っているのでしょう。
そして、「神に従う人が幸いを得れば町は喜ぶ」のです。

 

●11節.正しい人の祝福によって町は興り/神に逆らう者の口によって町は滅びる。
新改訳は、「直ぐな人の祝福によって、町は高くあげられ、悪者の口によって、滅ぼされる。」です。

 

10節の「悪者の滅びを喜ぶ」とは、この時代、弱者を虐げている権力者がいなくなることを指して喜ぶと表現しているのでしょう。
正しい人が栄えても、悪者が滅びても、どちらでも町は喜びの声を上げるとあります。

 

逆に、11節で、町が、正しい者と悪者にどのように対応するかで、高く上げられるか滅ぼされるかが決まるとあります。
理由は正しい人が祝福されると、町全体が高く上げられるが、悪者の口によって町は滅ぼされてしまうからです。

 

「悪者の口」は、町全体を滅ぼす力がある一方、神に真っすぐな人の「祝福」のことばは、町の繁栄のもとになるのです。

 

●12節.心ない者は友人を侮る。英知ある人は沈黙を守る。
新改訳は、「隣人をさげすむ者は思慮に欠けている。しかし英知のある者は沈黙を守る。」です。

 

わたしたちは人の不幸を喜び、自分と比較したがります。
そして、「隣人をさげすむ」ことによって、優越感を持ち自己満足に陥るのですが、それは「思慮に欠けた」ことだと言っています。

 

しかし、「英知のある者」は、人を蔑んだり、自分の自慢をしたりするようなことばを発しないと言っています。
「沈黙は金」と言う言葉がありますが、わたちには沈黙してはいけないときがあります。

 

しかし、人の批判や、自分の自慢を語るのは、自分の前に神を置いていないと言うことですから、「沈黙を守る」べきでしょう。
相手にとってそのことは決して快いことではなく、関係をより悪化させるだけです。
物事にはその時があることを忘れないようにしたいものです。

 

●13節.悪口を言い歩く者は秘密をもらす。誠実な人は事を秘めておく
新改訳は、「歩き回って人を中傷する者は秘密を漏らす。しかし真実な心の人は事を秘める。」です。

 

わたしたちはある人について否定的なことを聞くと、それに飛びつき、他の人にも伝えて、優越感に浸りたくなるものですが、神と共にある人は、愛をもってその人を包み込み、秘めておくものです。

 

●14節.指導しなければ民は滅びるが/参議が多ければ救われる。
新改訳は、「指導がないことによって民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る。」です。

 

物事の判断は、最終的には自分がするものですが、他者の指導また助言は非常に大切であることも事実です。人一人の知識には限界がありますし、物事は計画通りに進まないものです。

 

しかし、その過程で助言を受けることによって、より知恵ある行動を取ることができるのも事実です。

 

●15節.他国の者の保証人となれば災難がふりかかる。手を打って誓うことを嫌えば安全だ。
新改訳は、「他国人の保証人となる者は苦しみを受け、保証をきらう者は安全だ。」です。

 

保証人となることの危険について述べています。
お金を貸し借りする場合は、基本的に相手に一方的に与えるという立場で貸さなければ、貸した相手との関係を良く保つことはできないし、友人を失うことにもなります。

 

貸した人は貸したことを忘れても、借りた人は借りたことを忘れないものです。

 

●16節.美しい女は名誉をわがものとし/強い男は富をわがものとする。
新改訳は、「優しい女は誉れをつかみ、横暴な者は富をつかむ。」です。

 

「横暴な者」とは「横暴な男」のことだということです。
女と男との対比、また優しさと横暴の対比になっています。
「美しい女は名誉をわがものとし」というのも、「強い男は富をわがものとする。」と言うのもこの世界の現実です。

 

●17節.慈しみ深い人は自分の魂を益し/残酷な者は自分の身に煩いを得る。
新改訳は、「真実な者は自分のたましいに報いを得るが、残忍な者は自分の身に煩いをもたらす。」です。

 

17節から19節は報いについての教えでしょう。
真実な者(慈しみ深い人)は、「たましいに報いを得る」(魂を益し、報いを得る)。
反対に、「残忍な者は」、自分の身に(死後)「煩いを得る。」のです。

 

●18節.神に逆らう者の得る収入は欺き。慈善を蒔く人の収穫は真実。
新改訳は、「悪者は偽りの報酬を得るが、義を蒔く者は確かな賃金を得る。」です。

 

今度は報酬ですが、「神に逆らう者」の報酬は、「欺き」で、「慈善を蒔く人」の報酬は、「真実」です。
報酬と言っても、ここではこの世界での報酬のことを言っているのでしょう。

 

「欺き」も「真実」も、この世の報酬ですから、実質のない報酬であり、その時は大きく見えても、真価が試されるときに、瞬く間になくなります。

 

●19節.慈善は命への確かな道。悪を追求する者は死に至る。
新改訳は、「このように、義を追い求める者はいのちに至り、悪を追い求める者は死に至る。」です。

 

ここは来世での報酬のことを言っているのでしょう。

 

●20節.心の曲がった者を主はいとい/完全な道を歩む人を喜ばれる。
新改訳は、「心の曲がった者は主に忌みきらわれる。しかしまっすぐに道を歩む者は主に喜ばれる。」です。

 

わたしたちは他者に嫌悪感を持ったり好意を持ったりします。
神様が嫌われるのは、そういう表面的なことではなく、「心の曲がった者」ですから、神の御心に素直でない人で、逆に喜ばれるのは、「完全な道を歩む人」ですから、神の御心に沿った道を真っすぐに歩む者です。

 

●21節.悪人は何代経ようとも罰を逃れえず/神に従う人の子孫は免れる。
新改訳は、「確かに悪人は罰を免れない。しかし正しい者のすえは救いを得る。」です。

 

「確かに悪人は」というのは、直訳では、「悪人が手に手を打つのは」となります。手に手を打つ行為は契約を結ぶときですから、悪者同士の契約、約束事は罰を免れない、、すなわち子孫に至るまでその契約による罰は免れまい、と言うことでしょう。

 

●22節.豚が鼻に金の輪を飾っている。美しい女に知性が欠けている。
新改訳は、「美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ。」です。

 

「豚が鼻に金の輪を飾っている。」とはすごい表現です。
極端な言葉を使って比較して、女性を見る場合見掛けよりも内なる美がいかに大切であるかを強調して教えているのでしょう。

 

●23節.神に従う人の望みは常に良い。神に逆らう者の期待は怒りに終る。
新改訳は、「正しい者の願い、ただ良いこと。悪者の望み、激しい怒り。」です。

 

「正しい者」(神に従う人)はただ良いことを願います。
「悪者」(神に逆らう者)は、その反対で、期待はするが「怒りに終わる」とあります。
この「怒り」とは彼ら自身の怒りでもあるし、また彼らが受ける神から来る激しい怒りでもあるのでしょう。

 

●24節.散らしてなお、加えられる人もあり/締めすぎて欠乏する者もある。
新改訳は、「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。」です。
●25節.気前のよい人は自分も太り/他を潤す人は自分も潤う。
新改訳は、「おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。」です。
●26節.穀物を売り惜しむ者は民の呪いを買い/供する人の頭上には祝福が与えられる
新改訳は、「穀物を売り惜しむ者は民にのろわれる。しかしそれを売る者の頭には祝福がある。」です。

 

神は良い意味で、大雑把になりなさいと命じておられます。
そうすることにより、気前よく与えたり、散らしたりした者は、なお加えられたり、なお富み、祝福されるのです。
このように神は、豊かで、大らかな方なのです。

 

貧しい者、働いている者たちから厳しく搾り取るばかりでは、さらに自分も乏しくなると言うことでしょう。それは神様の摂理の大原則なのでしょう。

 

●27節.善を捜し求める人は好意を尋ね求める人。悪を求める者には悪が訪れる。
新改訳は、「熱心に善を捜し求める者は恵みを見つけるが、悪を求める者」には悪が来る。」です。

 

「善を捜し求めている人」には必ず恵みが注がれます。「悪を求める人」には、その人自身に悪が来ます。

 

●28節.富に依存する者は倒れる。神に従う人は木の葉のように茂る。
新改訳は、「自分の富に拠り頼む者は倒れる。しかし正しい者は若葉のように芽を出す。」です。

 

「正しい者は若葉のように」ですから、正しい者(神の御心に従う人)は、たとえ倒れてしまったかに見えても、再び芽を出します。
ところが「自分の富に拠り頼む者」は、倒れても芽を出さないのです。

 

●29節.家に煩いをもたらす者は風を嗣業とする者。愚か者は知恵ある人の奴隷となる。
新改訳は、「自分の家族を煩わせる者は風を相続し、愚か者は心に知恵のある者のしもべとなる。」です。

 

「自分の家族を煩わせる者」(家族を省みない者.つまり家長のこと)は、「風を嗣業とする者」とありますが、これは背景として、神は、結婚と家族という家庭を通して、神の家のご計画の写しを啓示しているのですが、その「家庭」のリーダーは夫であり、父です。またそのサポート役が妻で、母親です。

 

もし家庭の長である父親が家族にとって悩みの種となれば、その家族全体が大きな影響を受けることは当然です。
「自分の家族を煩わせる者」の語彙は「困らす」「悩ます」とも訳される動詞の分詞形だと言うことです。

 

父親が家族を煩わし、悩ませ、困らせる事態は深刻です。
例えば、どこから来てどこへ行くのかわからない風を神さまからの宝物だとするような人物です。
そのような愚かな人物は、結局、知恵ある人物の奴隷となってしまうのです。

 

そういう父親をここでは「愚か者」としていますが、それは、父親自身が親としての権威を自ら失墜させることは、自分の家族に「風」を、つまり「空しさ」を受け継がせることになるからだと言うことでしょう。
「空しさ」とは家族を支えている土台を壊し、その上にもたらされるすべての希望(祝福)を失わせることを意味しています。

 

●30節.神に従う人の結ぶ実は命の木となる。知恵ある人は多くの魂をとらえる。

 

「神に従う人」(正しい人)の「結ぶ実」ですから、神に従う人がその人生で得るのは命であると言うことでしょう。
「知恵ある人」は、「魂をとらえる。」ですから、多くの人にその命を分け与え、多くの人から感謝されることになる、と言うことでしょうか。

 

●31節.神に従う人がこの地上で報われるというなら/神に逆らう者、罪を犯す者が/報いを受けるのは当然だ。

 

「神に従う人がこの地上で報われる」ですから、神に従う人が生きている間に、その正しさによって豊かになるのであれば、神に対して逆らう人物、罪を犯す人が、その人生において報いを受けることは当然の道理である、と言うことでしょう。
しかし、新約聖書の語る無償の愛、無条件の愛を考えると、ここはちょっと違和感があります。

 

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