格言集㈡(9章)
聖書の箇所は、9章7節から12節です。
この箇所で言っている「知恵のある者」とは、戒めを受けることができる謙虚、叱責を受け入れ、教えを聞き入れることができる謙虚さを指すのでしょう。
自己中心的にものを考え、自分の都合に合わせて聞くことを取捨選択するのではないのです。
謙虚の内容は、「戒め」であり「責め」であり、そして「教え」です。
これらの働きによって神と親しく交わることが出来るのです。
戒めは正すこと、矯正することです。責めは、過ちを指摘すること。そして教えは、何が良くて悪いのか明らかにすることです。
●7節.不遜な者を諭しても侮られるだけだ。神に逆らう者を戒めても自分が傷を負うだけだ。
新改訳は、「あざける者を戒める者は、自分が恥を受け、悪者を責める者は、自分が傷を受ける。」です。
7節から9節は、賢い者と嘲る者を対比しています。
●8節.不遜な者を叱るな、彼はあなたを憎むであろう。知恵ある人を叱れ、彼はあなたを愛するであろう。
新改訳は、「あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。」です。
●9節.知恵ある人に与えれば、彼は知恵を増す。神に従う人に知恵を与えれば、彼は説得力を増す。
新改訳は、「知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵を得よう。正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう。」です。
●10節.主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め。
主を畏れることを主題。9章のポイントです。
10節から12節は、賢い者と嘲る者を対比しています。
「知恵の初め」の「初め」は順番の一番だと言うことですから、わたしたちが知恵を得るときは、まず初めに主を畏れるところから始めるのだよ、ということでしょう。
そして「聖なる方を知ること」は悟りですが、それは、聖なる神の前に人間は罪人であり、人間の努力ではどうしょうもないので、神のあわれみを呼び求め、キリストの十字架にすがりつくほかに救われる方法はないのです。
●11節.わたしによって、あなたの命の日々も/その年月も増す。
新改訳は、「わたしによって、あなたの日は多くなり、あなたのいのちの年は増すからだ。」です。
●12節.あなたに知恵があるなら、それはあなたのもの。不遜であるなら、その咎は独りで負うのだ。
新改訳は、「もし、あなたが知恵を得れば、その知恵はあなたのものだ。もし、あなたがこれをあざけるなら、あなただけが、その責任を負うことになる。」です。
「聖なる方を」受け入れ(知恵を得)れば命が得られて、拒めばその責任は自分にあります。その選択は、その人個人がするのです。
だから「その咎は独りで負う」のです。
知恵が自分の食事に招くとき、すべての者が応答するわけではありません。あざける者と受け入れる者に分かれるのです。
あくまでも、イエスの言葉にあるように、「耳のある者は聞きなさい。(マタイ13章9節)」と言われた通りです。
聞く耳がある人だけ聞きなさい、ということです。
聞く耳を持たない人は聞こうとしないので、聞こえないのです。
そして黙示録の最後の招きにあるように、「不正を行なう者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにして置け。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。」(黙示録22章11節)」と二つのグループに分かれるのでしょう。
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