ソロモンの格言集10章
聖書の箇所は、10章1節から32節です。
10章は、「ソロモンの格言集」という言葉で始まっています。
これまでは、父が子に語る訓戒の形式で話が進んできましたが、ここからは、一つ一つの短い格言集になっていて、テーマは、「正しい者と悪者」です。
格言の多くが対比、つまり、正しい者はこうこうこうであるが、悪者はこうである、という対比になっています。
一節一節が自己完結した格言ですから、順番に読んでも一貫した流れがありません。
●1節.ソロモンの格言集。知恵ある子は父の喜び、愚かな子は母の嘆き。
新改訳は、「知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみである。」です。
子に対する両親の喜びと悲しみが記されています。
家庭教育をしたとしても、子供は「知恵のある子」あるいは「愚かな子」ともなり得ます。
この「知恵」と言うのは、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」(9章10節)とあるように、創造主との関係で言われることだと思うのですが。
子どもがみな「知恵のある子」となるなら、その子は親にとって「喜び」となりますが、逆に「愚かな子」となるなら、親にとって「悲しみ」となります。
この「悲しみ」は、「憂い」とも「重荷」とも訳されているそうです。
神の愛のもとに子育てをしたとしても、すべての子どもが「知恵のある子」となるとは限りません。中には愚か者に育つ子供もいます。
なぜそのようになるのかはわかりませんが、おそらく悪魔がこの世を支配していることと関係があるのでしょうが、神がご自分から離反している人間を見て苦悩されているのと同じように、「愚かな子」(神から離れた子)を持つ親には、それがすべて親の責任ではなかったとしても、苦悩に満ちた「悲しみ」があるのは真実です。
「愚かな子は母の嘆き」ですが、愚かな子がいれば父は口をつぐみますが、母には直接的に悲しみがもたらされます。母が直接、被害を受けるのです。
●2節.不正による富は頼りにならない。慈善は死から救う。
新改訳は、「不義によって得た財宝は役に立たない。しかし正義は人を死から救い出す。」です。
「不正による富は頼りにならない。」ですが、経済活動において、「富」を得ること自体は決して悪くはなく、大切なものだと思います。
市場経済のもとでの経済活動により得る利益は、基本的に、その働きが消費者の必要を満たすことができることも事実です。
問題は、富を追及する場合、「目的のためには手段を選ばない」ということが起きがちだからでしょう。
富を得ることが出来るのも神様の御手のうちにあるのですから、その富を正義のため(慈善のため)に使われるならば「慈善は死から救う。」ですから、来世において頼りになるのです。
言い換えると、富は幸せを保証するものではなく、それ自体が手段に過ぎないと言うことです。
神に逆らって豊かになっても、あなたのいのちの保障はありません。
不正に対する反対語は正義ですが、「しかし正義は人を死から救い出す」と書いています。
「正義」とは、神との (正しい関係)と言いかえることもできます。
実際、多くの財宝を手にしていながら、不安と孤独に苛まれている人も多くいます。神に逆らって豊かになっても、あなたのいのちの保障はないのです。
●3節.主は従う人を飢えさせられることはない。逆らう者の欲望は退けられる。
新改訳は、「主は正しい者を飢えさせない。しかし悪者の願いを突き放す。」です。
この悪魔が支配するこの世を生きるのには労働を強いられるが、神様は下記の通り約束してくださっています。
新約マタイの福音書6章26節「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 」
と言いましても、現実には、主に従っている人が飢えていないとは言えないし、
主に従っていない人が飢えているとも言えません。
だから、この言葉は、来るべき世までをも含めて理解すべきことなのでしょう。
●4節.手のひらに欺きがあれば貧乏になる。勤勉な人の手は富をもたらす。
新改訳は、「無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ます。」です。
●5節.夏のうちに集めるのは成功をもたらす子。刈り入れ時に眠るのは恥をもたらす子。
新改訳は、「夏のうちに集める者は思慮深い子であり、刈り入れ時に眠る者は恥知らずの子である。」です。
この世の仕事を考える時、主は、ひとりひとりに役目と言うか仕事を与えておられると思うのです。
それを誠実に成し遂げて、結果的に富を得ることができれば良いことです。
「財産」は私たちの人生を守り、豊かにできる神からの賜物ですから、それを否定することは、聖書の教えを否定することになります。
神を忘れずに豊かさを享受できるのが最も良いことかもしれませんが、それでも財産は、手段に過ぎないということは、決して忘れてはなりません。
5節の、「夏」と「集める」、「刈り入れ時」と「眠る」です。
夏の暑い時に眠り、刈り入れ時には集めるのであれば、まだ救いがありますが、刈り入れ時に眠ってしまってはお仕舞いです。
新改訳の「思慮深い子」を新共同訳では「成功をもたらす子」としています。
5節が意味していることは何でしょうか。
それはその「時」を知っている者とそうでない者との違いではないかと考えます。
「天の下では、何事にも定まった時期があり」(伝道3章1節)とあるように、時を生かすことのできる者は成功をもたらしますが、時を生かすことのできない者は何も得られず、恥知らずです。
もし時を逸すれば、多くのものを失い、無駄になってしまいます。
時の感覚を身に着けるとは、計画から始まってそれを成し遂げていくプロセスのすべてを含みます。
●6節.神に従う人は頭に祝福を受ける。神に逆らう者は口に不法を隠す。
新改訳は、「正しい者の頭には祝福があり、悪者の口は暴虐を隠す。」です。
「頭に祝福を受ける。」とありますが、これは上から、神から来る、という意味でしょう。
祝福は、わたしたちが勝ち取るものではなく、一方的に、神から恵みとして与えられるものなのです。
「神に逆らう者」ですが、「口に不法を隠す。」ですから、その不法はいつも口に隠されています。
自分の不法(悪事)を口にだして言うことはなく隠していれば、必ず神に対する欺きの罪を犯します。
それは、その悪事を口に出さないで、隠しているからです。
逆に、「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(1ヨハネ1:9)」
●7節.神に従う人の名は祝福され/神に逆らう者の名は朽ちる。
新改訳は、「正しい者の呼び名はほめたたえられ、悪者の名は朽ち果てる。」です。
これは来世でのことで、正しい者も悪者も死んだ後に、その名は覚えられ、報いを受けることになります。
●8節.知恵ある心は戒めを受け入れ/無知な唇は滅びに落とされる。
新改訳は、「心に知恵のある者は命令を受け入れる。むだ口をたたく愚か者は踏みつけられる。」です。
箴言では、命令や叱責を受け入れることが知恵であることが、繰り返し、一貫して語られています。
「心に知恵のある者は命令を受け入れる」ですから、この言葉には、「教えを受けることができるほど、へりくだっている」という意味合いがあります。
その反面、「無知な唇は滅びに落とされる。」ですから、愚か者は教えを聞いても受けることができないで、むだ口をたたきます。
●9節.完全な道を歩む人は安らかに歩む。道を曲げれば知られずには済まない。
新改訳は、「まっすぐに歩む者の歩みは安全である。しかし自分の道を曲げる者は思い知らされる。」です。
平穏に暮らしたいならば、「まっすぐに歩む者」になることです。
まっすぐに歩むとは、神から与えられた良心に従って生きる、ということになるのでしょう。
良心を無視して自己中心に生きれば、真実は後で必ず明らかにされるので、そのときに思い知らされます。
●10節.嘲りのまなざしは人を苦しめる。無知な唇は滅びに落とされる。
新改訳は、「目くばせする者は人を痛め、むだ口をたたく愚か者は踏みつけられる。」です。
「目くばせ」は、人と話しているのに自分の仲間に目をやって、合図をする意味での目配せでしょう。
目くばせの意味は、自分の意見に合わせろと言うことでしょうが、相手は真実を語ってもらえていないことを知り、心を痛めるでしょう。
●11節.神に従う人の口は命の源/神に逆らう者の口は不法を隠す。
口からでる言葉には、その人の人生を変える力があります。
「命の泉」とあるように、神の御心に沿う言葉(知恵を追い求める人)なら、その言葉はその人の「命の泉」(神に祝福され)になり、神のみ心に逆らう言葉(知恵を追い求める人の反対)は、その口に「不法を隠す」ですから、欺きの言葉を隠しているから口数が多くなると言えます。
●19節.口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば成功する。
新改訳は、「ことば数が多いところには、そむきの罪がつきもの。自分のくちびるを制する者は思慮がある。」です。
18節に書いたように、口数が多いと言うことは、欺きの言葉を隠していると言うことです。
わたしたちにもよくあることで、あの一言を言っていなければ、このようになっていなかったのにと言う後悔です。何か隠し事があるから言葉数が多くなり、言葉数が多くなると、言わなくても良いことを言ってしまうのです。
ここは、言葉のもととなる、心を(言葉を)神に支配していただく必要を書いているのでしょう。そのためには、知恵を追い求める必要があります。
そういう人を、神に従う人と表現しているのでしょう。
●20節.神に従う人の舌は精選された銀。神に逆らう者の心は無に等しい。
●21節.神に従う人の唇は多くの人を養う。無知な者は意志が弱くて死ぬ。
新改訳では、「神に逆らう者」を悪者とし、「無知な者」を愚か者としています。
「神に従う人」(正しい者)の言葉は、良く練られており、「多くの人を養う」ですから、多くの人の役に立ちます。
それを「精選された銀」で表現されています。
神に従う人の語る言葉は多くの人に良い影響を与え、その人に命さえ与えるものとなります。
「神に逆らう者」は、つまり愚か者は悪口を言います。悪口を言う人間は自分の愚かさを公言しているようなものです。それに、悪口を言う人は、口数も多いです。口数が多ければ、必ず罪を犯すことになります。だから、「神に逆らう者の心は」無価値であるのに等しいのです。
だからこそ、知恵によって、不適切な発言、不用意な発言を控えるのであれば、その人は人生において成功するであろうと言うことでしょうか。
●22節.人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。
新改訳は、「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」です。
祝福は、神様からくるもので、与えられるものです。そこに人の労苦は関係ありません。
しかし、「人間が苦労しても何も加えることはできない。」には、自由意思を与えられた神様であるならば、矛盾するように感じられます。
「何も加える」とありますから、既にこの世的な富を得た人に向けての言葉ではないでしょうか。
わたしたちの働く環境は、基本的に、獲得したものではなく、与えられたものです。
しかも、「富を築き上げる力」や「苦労する力」を与えてくださったのも、神様です。
たとえば忍耐心はその人の劣るところをカバーします。
ですから、忍耐心は神によって与えられた恵みだと言えます。
つまり、長所と短所を併せて持たせてくださっているのです。この世がわたしたちの訓練の場と考えるなら、それも納得できます。
わたしたちは、自分が生まれた環境も、基本的な気質も体型も、選ぶことができません。
そこには疎ましく思えるようなこともありますが、それらすべてを神から与えられた祝福と受け止めるとき、世界が変わって見えます。
●23節.愚か者は悪だくみを楽しみ/英知ある人は知恵を楽しむ。
「楽しみ」とは、人が集まって悪いことを企んでいるときは、楽しいものだと言うことでしょう。
反対に、英知のある人は知恵を得ることが楽しみです。
●24節.神に逆らう者は危惧する事に襲われる。神に従う人の願いはかなえられる。
新改訳は、「悪者の恐れていることはその身にふりかかり、正しい者の望みはかなえられる。」です。
悪者は、自分が行ったことが自分の身に降りかかってくることを、うすうす分かっているものです。危惧しながら悪いことを行うものです。
因果応報と言う諺がありますが、これも、神が置かれた一つの法則なのでしょう。
「神に従う人の願いはかなえられる。」のです。
その望みが御心に従っているならば、神様は必ずかなえてくださいます。
●25節.神に逆らう者はつむじ風の過ぎるように消える。神に従う人はとこしえの礎。
新改訳は、「つむじ風が過ぎ去るとき、悪者はいなくなるが、正しい者は永遠の礎である。」です。
悪者は過ぎ去り、生きながらえるのは正しい者、というのは聖書全体に貫かれている原則であり真理です。
●26節.歯に酢、目に煙、主人に怠惰な召し使い。
新改訳は、「使いにやる者にとって、なまけ者は、歯に酢、目に煙のようなものだ。」です。
使いに出しても、その用事をやって来ないときの、使いにやった者の気持ちを表現しているのでしょう。
「歯に酢、目に煙」と言うのは、煙が目に染みると、涙が出て不快です。
酸っぱいものが自分の口の中に入ったときのつらさを言っているのでしょう。
面白い表現です。
●27節.主を畏れれば長寿を得る。主に逆らう者の人生は短い。
新改訳は、「主を恐れることは日をふやし、悪者の年は縮められる。」です。
ここの「長寿」と言うのは、やはり来世に至る人生を言っているのでしょう。
この世のいのちだけだと、「主を畏れれば」長生きできるなどととても思えませんからね。
●28節.神に従う人は待ち望んで喜びを得る。神に逆らう者は期待しても裏切られる。
新改訳は、「正しい者の望みは喜びであり、悪者の期待は消えうせる。」です。
正しい者の望みはやがてかなえられるので、大いなる歓喜と喜びが沸き起こります。けれども悪者の期待は裏切られます。
これもやはり来世にかけての人生を言っているのでしょう。
●29節.主の道は、無垢な人の力/悪を行う者にとっては滅亡。
新改訳は、「主の道は、潔白な人にはとりでであり、不法を行なう者には滅びである。」です。
同じ神様に従う道でも二つあります。
神様に従う道は、「無垢な人」(一途に従う人)には砦として守る役目を果たし、「悪を行う者」には滅びをもたらすものです。
神様は、信じる者には救いの力であり、信じない者には後で報いを受ける基準になります。
●30節.神に従う人はとこしえに揺らぐことなく/神に逆らう者は地に住まいを得ない。
新改訳は、「正しい者はいつまでも動かされない。しかし悪者はこの地に住みつくことができない。」です。
29節と、同じ考えで、この世の終末が強く意識されているのでしょう。
神の国が建てられるときに、正しい者がこの地上に住みます。悪者はそこにはいません。
●31節.神に従う人の口は知恵を生み/暴言をはく舌は断たれる。
新改訳は、「正しい者の口は知恵を実らせる。しかしねじれた舌は抜かれる。」です。
●32節.神に従う人の唇は好意に親しみ/神に逆らう者の口は暴言に親しむ。
新改訳は、「正しい者のくちびるは好意を、悪者の口はねじれごとを知っている。」です。
「神に従う人」、つまり神を信じてその人生を歩む人は、神がその人を守ってくださることを知っているので、その歩みは確信に満ちたものとなり、言葉に余裕があり揺らぎがないので人に好かれます。
そして、その知恵は、他人から好まれます。
「神に逆らう者」は、「暴言に親しむ」ですから、欲に任せて、暴言によって不正に富を得ようとしますので、その人はその吐いた暴言によって「舌は断たれる」、すなわち、その人はその罪によって破滅し、陰府の国に住むことになる、と言うことでしょうか。
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