ソロモンの格言集13章
聖書の箇所は、13章1節から25節です。
●1節.子は父の諭しによって知恵を得る。不遜な者は叱責に聞き従わない。
新改訳は、「知恵のある子は父の訓戒に従い、あざける者は叱責を聞かない。」です。
ここで「父」と言うのは、神に従う人ですから、その父の諭しを聞く子供を知恵ある子とし、その知恵(諭し)の意味を悟るので、教訓を聞きます。
逆に、「不遜な者」(あざける者)は、その意味を知ろうとしないので、叱責に聞き従わない。
●2節.口の言葉が結ぶ実によって/人は良いものを享受する。欺く者の欲望は不法に向かう。
新改訳は、「人はその口の実によって、良いものを食べ、裏切り者は、暴虐に食べる。」です。
ここで暴虐とは、むごいことをして人を苦しめることを射ているのでしょう。
●3節.自分の口を警戒する者は命を守る。いたずらに唇を開く者は滅びる。
新改訳は、「自分の口を見張る者は自分のいのちを守り、くちびるを大きく開く者には滅びが来る。」です。
ここは自分の語る口についての格言です。
内容は2節と同じです。何でもかんでも言いたいことを言うこと(いたずらに唇を開く者、くちびるを大きく開く者)に対して、自分の口を見張る(警戒する)ことは知恵あること(命を守るから)だとしています。
愚かな者はつねに愚かなことを大きな口を開いて多く語るものです。それが原因で自らを滅ぼすのです。
●4節.怠け者は欲望をもっても何も得られず/勤勉な人は望めば豊かに満たされる。
新改訳は、「なまけ者は欲を起こしても心に何もない。しかし勤勉な者の心は満たされる。」です。
怠け者は、欲と言うか願い求めても、所詮「怠け者」ですから、何も得ることはないし、心は空虚で何ものこらない。
しかし「勤勉な者」は、勤め働く者の心は豊かに満たされる。
●5節.神に従う人は偽りの言葉を憎む。神に逆らう者は悪臭を放ち、辱められる。
新改訳は、「正しい者は偽りのことばを憎む。悪者は悪臭を放ちながら恥ずべきふるまいをする。」です。
正しい者(神に従う者)は偽りを憎む、しかし悪者(神に逆らう者)は恥じることになるのも構わず、不愉快なふるまいをします。
悪者は、節度に欠ける行動が目立つのです。
神様はこのように偽りに対して健全な憎しみを持ちなさいと言われる。
「嘘も方便」という諺が日本にはありますが、神はこれを憎む、と言われています。
●6節.慈善は完全な道を歩む人を守り/神に逆らうことは罪ある者を滅ぼす。
新改訳は、「正義は潔白な生き方を保ち、悪は罪人を滅ぼす。」です。
「慈善」(正義)は神に従う道、すなわち神は、「完全な道」(真っすぐな道)を歩む者を守り、「神に逆らうことは罪ある者を滅ぼす。」ですから、罪ある者は、まっすぐ進むことがないので、神に滅ぼされるのです。
罪人は自分が悪を行なっていても悪に支配されていると思っていないが、事実は、罪びとは悪に囚われていると言うか、悪に支配されているのです。
悪が罪びとを捕えていることに罪びとは気が付かないし、自分ではどうすることもできないのです。
●7節.富んでいると見せて、無一物の者がいる。貧乏と見せて、大きな財産を持つ者がある。
富んでいると偽りの仕草をして、何も持たない者もいるが、貧しいと偽って、多くの富を持っている者もいるのです。
ここは富についての見せかけについての教えですが、どちらも偽っていますからどちらも悪い例です。
一つ目の、「富んでいると見せて」については、そうするのにはいろいろな動機があるでしょうが、事実を見せたくないとか自慢したいという思いがあるでしょう。
あるいは、お金もないのに人に気前良く振る舞うことがあります。
いずれにしても、自分に与えられているお金をきちんと管理できていません。
二つ目は、貧しい人と反対で、多くの富を持っているのに貧しいように見せかけるのは、これも同じでお金があることを知られたくないと言うお金持ちにありがちな行為です。
どちらも神から与えられた富を貧しい人々に分け与えるという「慈善」(正義)に反しているので、神から見たら間違っています。
●8節.財産が自分の身代金になる者もある。貧しい人は叱責を聞くことはない。
新改訳は、「富はその人のいのちの身の代金である。しかし貧しい者は叱責を聞かない。」です。
言い換えれば、人の富はその命をあがなう、しかし貧しい者にはあがなうべき富がない、と言うことでしょうが、「叱責を聞くことがない」と言うのは、怠け者の行き着くところは貧困ですから、怠け者に貧しくならぬように人々が忠告を与えてもそれを聞こうとしないと言うことでしょう。
ただし、身代金(財産)のないことの現実を述べ警告していますが、有無には、良いとも悪いとも言っていません。
●9節.神に従う人の光は喜ばしく輝き/神に逆らう者の灯は消される。
新改訳は、「正しい者の光は輝き、悪者のともしびは消える。」です。
正しい者のひかりの言葉は輝き、神に逆らう者(悪しき者)のともしびは消されるのです。
●10節.高慢にふるまえば争いになるばかりだ。勧めを受け入れる人は知恵を得る。
新改訳は、「高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある。」です。
高ぶりはただ争いを生じさせるだけで、愚かなることであり、勧告を聞き入れる者は、知恵の言葉(神の言葉)と共にあるのです。
「知恵を得る」は、その大切な悟りを知り得ると言うことでしょうか。
争いがあるとき、そこには勧告を聞かない人の人の高ぶりがあります。けれども知恵ある人(勧告を聞く人)は謙虚になります。いや、謙虚だから勧告を聞くことができます。
●11節.財産は吐く息よりも速く減って行くが/手をもって集めれば増やすことができる。
新改訳は、「急に得た財産は減るが、働いて集める者は、それを増す。」です。
急いで得た不正なる富は減るが、「働いて集める者」ですから、少しずつたくわえる者はそれを増すことができるのです。
あぶく銭は身につかずですね。確実に増えていくのは、自分の労働によって得る対価で得たお金だけです。
●12節.待ち続けるだけでは心が病む。かなえられた望みは命の木。
新改訳は、「期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。」です。
「待ち続ける」のが長引くと心が疲れます。それは、望みが適うのはいつかと首を長くして待つからです。
そのようにして、かなえられた望みは命の木を得たようだ、と言っています。
その望みを病の回復に置き換えれば、よくわかります。
もう、直らないと思っていた病が、回復すれば命の木を得たような心になります。
●13節.言葉を侮る者は滅ぼされ/戒めを敬う者は報われる。
新改訳は、「みことばをさげすむ者は身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける。」です。
御言葉ですから神の言葉を軽んじる者は、やがては滅ぼされ、神の戒めを重んじて、心に刻み、それに従う者は報いを得るのです。
神の言葉によって救われるか、それとも神の言葉を拒んで滅びるかのどちらかです。
●14節.賢人の教えは命の源。死の罠を避けさせる。
新改訳は、「知恵のある者のおしえはいのちの泉、これによって、死のわなをのがれることができる。」です。
「賢人」(知恵ある者)の教えなる言葉は命の泉である、これによって死の罠を免れ、ことの真相を悟ることができるのです。
●15節.見識は優雅さを伴う。欺く者の道は手ごわい。
新改訳は、「良い思慮は好意を生む。裏切り者の行ないは荒い。」です。
「良い思慮は好意を生む」は、善良で賢い者(見識ある者、良い思慮)は恵みを得るのです。
「裏切り者」の英訳は、「真実ではない者」と訳されているそうです。
そして「荒い」は「固い」と訳されているそうです。
ですから、「裏切り者の行ないは荒い。」と言うのは、主を裏切るとか主に不誠実な者を指し、主を裏切ると心は固くなり、神の言葉を軽んじるので世の誘惑に負け、御霊の導きも分からなくなって、彷徨するようになる、と言うことでしょうか。
●16節.思慮深い人は皆知識に基づいてふるまう。愚か者は無知をさらけ出す。
新改訳は、「すべて利口な者は知識によって行動し、愚かな者は自分の愚かさを言い広める。」です。
「利口な者」は、知恵なる言葉(神の言葉)の知識によって事をおこない、「愚かな者」は、いつまでもその変化と言う道を見ることが出来ないから、自分の愚を見せびらかすのです。
つまり、心に目標を持つことは知恵だと言っているのです。それは知恵なる言葉で得られると言うことでしょう。
●17節.神に逆らう使者は災いに遭い/忠実な使いは癒す。
新改訳は、「悪い使者はわざわいに陥り、忠実な使者は人をいやす。」です。
「使者」とは、国などから派遣されて、権威をもってやってきた人々です。
忠実な使者は、その任務を遂行するので、それが神の国からの使者であれば、その使者は忠実で善良ですから、人々を救う言葉を話すので、人々を癒すと言うことでしょう。
けれども、その使命を全うしない「悪い使者」には、災いがやってきます。
悪しき使者は人を災いに陥れるのです。
●18節.諭しをなおざりにする者は貧乏と軽蔑に遭う。懲らしめを守れば名誉を得る。
新改訳は、「貧乏と恥とは訓戒を無視する者に来る。しかし叱責を大事にする者はほめられる。」です。
訓戒を無視するところに、「貧乏と恥」ですから、そこには貧困があります。しかし貧乏でも、戒めを守る者は褒められるのです。
●19節.欲望がかなえられれば魂は快い。愚か者は悪を避けることをいとう。
新改訳は、「望みがかなえられるのはここちよい。愚かな者は悪から離れることを忌みきらう。」です。
「望みがかなえられる」と、心は楽しくなります。愚かな者は、悪を捨てることが出来ず、その愚かな行動を断ち切ることをきらうのです。
悪から離れ、主に従う道を選べば、主はすぐに来られて、私たちを憐れんでくださるのですが、愚か者はその悪の誘惑から離れることが出来ないのです。
●20節.知恵ある者と共に歩けば知恵を得/愚か者と交われば災いに遭う。
新改訳は、「知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける。」です。
類は類を呼ぶと言うことでしょうか。誰と一緒にいるかが非常に重要になります。
知恵ある者とともに歩む者は知恵を得ることができるが、愚かな者の友となる者はその者から害を受ける。
これは現実で、愚かな者から離れないといつまでもその害は及ぶのです。
●21節.災難は罪人を追う。神に従う人には良い報いがある。
新改訳は「わざわいは罪人を追いかけ、幸いは正しい者に報いる。」です。
災いはつねに罪人をめがけて送りこまれる、正しい者は、その災いを受けることなく良い報いを受けるのです。
神に従って生きる者が必ずしもこの世では「災いを受けることなく良い報いを受ける」とは限りません。だからこれも来世に渡って受け止めるべきでしょう。
この世は不条理そのものです。そこにこの世が存在する意味があるのでしょう。
●22節.善人は孫の代にまで嗣業を残す。罪人の富は神に従う人のために蓄えられる。
新改訳は、「善良な人は子孫にゆずりの地を残す。罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる。」です。
善良な人はその嗣業を子孫し、罪びとの富は正しい人のためにたくわえられる。と読みます。
いくら罪人が蓄えた富んだとしても滅ぼされればその富は善良なる他人にわたるだけです。
ただし、この嗣業を霊的な財産とする解釈があります。霊的な財産は、人々に引き継がれ、ある人が別の人を教え、その人がまた別の人を教えていく、この連鎖が起こると言うことです。
●23節.貧しい人の耕作地に多くの食糧が実っても/正義が行われなければ奪われる。
新改訳は、「貧しい者の開拓地に、多くの食糧がある。公義がないところで、財産は滅ぼし尽くされる。」です。
貧しい者が開拓し、多くの収穫がありました。しかし公義(正義)がなければ、その財産を維持することはできません。
●24節.鞭を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える。
新改訳は、「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」です。
子どもを訓練することの重要性が教えられています。
「鞭」と言うのは、子育てについて、躾についての教えを指すのでしょう。
躾(鞭)は、子どもの顔を見て、ことばをもって語り、諭すことによる教育です
もし躾をしないのであれば、それはその子をいたわっているのではなく、憎んでいることです。
それは、その子は悪や愚かさを捨てることを学ぶ機会を失うからです。
鞭で躾られた子は、親を大切にするが、鞭を加えないで、甘やかされた子は好き放題に生きるのが癖になり、大人になれば親の言うことも聞かなくなり困った子供になります。
親にとっては頭の痛い問題ですが、親はそのうちにその子の行いを憎むようになります。
かわいいからと言って子供を甘やかすのは、愛だと思っているが愛ではなく、無責任です。
子を愛するならば、愛に鞭は必要ですが、主の懲らしめもこれと同じなのです。
「親が子を愛する」とは、子に対するふさわしい躾をすることなのです。
そのことをしない親は真に子を愛していることにはならないということです。
子供を躾るのは、大変なことです。
つまり、躾るためには、常に「一貫した態度」が親に要求されますし、それなりの教育の指針をもっていなければなりません。
●25節.神に従う人は食べてその望みを満たす。神に逆らう者の腹は満たされることがない
新改訳は、「正しい者は食べてその食欲を満たし、悪者は腹をすかせる。」です。
悪者は、自分で働かないで、人が持っているものを奪い取ろうとしますが、いつまでもそれらは成功しませんので、最後は腹をすかせる状態になります。
正しい者は勤勉ですし、あるもので我慢しますので、食欲が満たされます。
しかし、悪者の腹は、御馳走を常に求めるので、飽くことを知らず満たされないのです。
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