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2021年11月 6日 (土)

知恵の勧め㈢(8章)

聖書の箇所は、8章1節から36節です。
8章には、3度目の「知恵の勧め」という小見出しがつけられています。

 

知恵は人が人生を誤らないように導くから、金銀に勝る価値を持つとします。
知恵を擬人化して、知恵自身が教師となって人々を教えるという形をとっています。

 

●1節.知恵が呼びかけ/英知が声をあげているではないか。
新改訳は「知恵は呼ばわらないだろうか。英知はその声をあげないだろうか。」です。

 

原文では、「知恵であるわたし」(「わたしは知恵」)と明言されているそうです。
その知恵であるわたしが、そう、「知恵」と「英知」が、声を上げて、呼んでいる」のです。

 

1章でも「知恵」が擬人化されて「わたし」と表現されて、「知恵は巷に呼ばわり/広場に声を上げ・・叫び、・・語りかける。」(20~21節)とあるにもかかわらず、それを「拒み、意に介せず、なおざりにし、受け入れないなら」(24~25節)とあります。

 

●2節.高い所に登り、道のほとり、四つ角に立ち
新改訳は、「これは丘の頂、道のかたわら、通り道の四つ角に立ち、」です。
●3節.城門の傍ら、町の入り口/城門の通路で呼ばわっている。
新改訳は、「門のかたわら、町の入口、正門の入口で大声で呼ばわって言う。」です。

 

 

 

7章では、道を歩いていると見知らぬ女が若い男を呼びましたが、ここでは、「知恵」が呼び掛けています。
「知恵」と言うのは、1章にあるように女性ですから、「見知らぬ女」と「知恵であるわたし」の対比になります。
「知恵であるわたし」と「見知らぬ女」が声をかけるのとはっきり違うのは、その場所と方法です。

 

「知恵であるわたし」は、「高い所に登り、道のほとり、四つ角に立ち、城門の傍ら、町の入り口/城門の通路で」呼ばわっているのです。
このように人々が行き交っているところで、大声で呼ばわっているのです。
見知らぬ女は薄暗くなったところで、こそこそと一人ひとりに語りかけるのですが、知恵は、多くの人の前で堂々と叫んでいるのです。

 

●4節.「人よ/あなたたちに向かってわたしは呼びかける。人の子らに向かってわたしは声をあげる。
●5節.浅はかな者は熟慮することを覚え/愚か者は反省することを覚えよ。
新改訳は、「わきまえのない者よ。分別をわきまえよ。愚かな者よ。思慮をわきまえよ。」です。

 

知恵は声を上げ、浅はかな者(わきまえのない者)たちに呼びかけます。
この呼びかけは11節まで続きます。

 

それにしても、「わきまえのない者よ。愚か者よ。」と、見知らぬものから突然呼びかけられたら、怒るでしょうね。

 

●6節.聞け、わたしは指導者として語る。わたしは唇を開き、公平について述べ
新改訳は、「聞け。わたしは高貴なことについて語り、わたしのくちびるは正しいことを述べよう。」です。
●7節.わたしの口はまことを唱える。わたしの唇は背信を忌むべきこととし
新改訳は、「わたしの口は真実を告げ、わたしのくちびるは悪を忌みきらうからだ。」です。
●8節.わたしの口の言葉はすべて正しく/よこしまなことも曲がったことも含んでいない。

 

見知らぬ女は日没時、暗がりで声をかけますが、知恵はそのようなことをする必要がないのでしょう。
なぜなら、それは言葉は正しく、よこしまなことも曲がったことも含んでいないからです。そして、その言葉は真実で、悪を忌み嫌うからです。

 

●9節.理解力のある人には/それがすべて正しいと分かる。知識に到達した人には/それがすべてまっすぐであると分かる。

 

「理解力のある人には」神の知恵、真実は、「それがすべて正しいと分かる」のです。
なぜならば、その知恵は、「あまりにも明らかで、はっきりしていて、納得できるものばかりだからです。
理解力のある人とは、知識に到達した人ですが、神の言葉を知っている人と言うことでしょうか。

 

●10節.銀よりもむしろ、わたしの諭しを受け入れ/精選された金よりも、知識を受け入れよ。
●11節.知恵は真珠にまさり/どのような財宝も比べることはできない。
新改訳は、「知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これには比べられないからだ。」です。

 

知恵こそ「真珠にまさり/どのような財宝(喜び)も比べることはできない。」最高の宝だと言っています。
知恵は「懲らしめ」(新改訳)であり、そしてそこから出てくる「喜び」(新改訳)です。
そして、このような懲らしめと喜びは、銀とか精錬された金、あるいは真珠よりもまさると言っています。

 

●12節.わたしは知恵。熟慮と共に住まい/知識と慎重さを備えている。
新改訳は、「知恵であるわたしは分別を住みかとする。そこには知識と思慮とがある。」です。

 

ここ12節からは、知恵による支配について語ります。
知恵は、「分別」を住みかとし、そこには知識と思慮が与えられます。

 

「神の知恵」と「この世の知恵」は全く異質であり、区別すべきものであることを自覚する必要があります。

 

●13節.主を畏れることは、悪を憎むこと。傲慢、驕り、悪の道/暴言をはく口を、わたしは憎む。
新改訳は、「主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。」です。

 

「主を畏れること」は主を知ることで、悪を憎むことです。
そして知恵は、悪の中でも「高ぶりと、おごり」そして悪の道、ねじれたことばを憎みます。

 

●14節.わたしは勧告し、成功させる。わたしは見分ける力であり、威力をもつ。
新改訳は、「摂理とすぐれた知性とはわたしのもの。わたしは分別であって、わたしには力がある。」です。

 

「摂理とすぐれた知性」ですが、主はご自分のみこころのままに、ご自分の事をことごとく行なわれます。
神の「知恵」は人の目には隠された秘密であり、奥義です。しかしそれを悟り、理解して識別することのできる力が「悟り」「分別」ということでしょう。

 

●15節.わたしによって王は君臨し/支配者は正しい掟を定める。
新改訳は、「わたしによって、王たちは治め、君主たちは正義を制定する。
●16節.君侯、自由人、正しい裁きを行う人は皆/わたしによって治める。
新改訳は、「わたしによって、支配者たちは支配する。高貴な人たちはすべて正義のさばきつかさ。」です。

 

知恵は、王を立て、王を倒すところの神の知恵、国々を動かしている支配者たちに働いている知恵です。
だから、国の指導者らも、神によって立てられ、君臨するのですから、神の御手の中にあるのです。

 

●17節.わたしを愛する人をわたしも愛し/わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。

 

知恵がどんどん人格化されています。
わたしを愛する者(複数)を愛す。、わたしを(熱心に)探し求める者(複数)はわたしを見いだすのです。
8章21節で、「わたしを愛する者には財産を受け継がせ、彼らの財宝を満たす。」と約束されています。この財産は、天にある財産のことでしょう。
それは、天にある倉に蓄えられているのです。

 

●18節.わたしのもとには富と名誉があり/すぐれた財産と慈善もある。
新改訳は「富と誉れとはわたしとともにあり、尊い宝物と義もわたしとともにある。」です。
●19節.わたしの与える実りは/どのような金、純金にもまさり/わたしのもたらす収穫は/精選された銀にまさる。
新改訳は「わたしの実は黄金よりも、純金よりも良く、わたしの生み出すものはえり抜きの銀にまさる。」です。
●20節.慈善の道をわたしは歩き/正義の道をわたしは進む。
新改訳は「わたしは正義の道、公正の通り道の真中を歩み、」です。

 

義とそれに伴う財産の相続は、わたし(知恵)と共に歩む者に与えられます。

 

●21節.わたしを愛する人は嗣業を得る。わたしは彼らの倉を満たす。
新改訳は「わたしを愛する者には財産を受け継がせ、彼らの財宝を満たす。」です。

 

この財産は、もちろん、天において得られる財産です。この世を「わたしを愛して」歩む者には、天に財産が蓄えられていると言うことでしょう。

 

●22節.主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。

 

「その道の初め」は、「わたしを造られた」ですから、天地創造における知恵の役割が告げられているのでしょう。
知恵は、国の指導者を動かす力だけではなく、天地創造の原動力でもありました。

 

●23節.永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。
新改訳は、「大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。」です。

 

知恵が創造の初めから、神と共にいたと箴言は証言しています。

 

●24節.わたしは生み出されていた/深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。
新改訳は、「深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。」です。

 

「永遠の昔」「わたしは生み出されていた/深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないときですから、この箇所は明らかに天地創造の箇所です。
創世記1章1-2節です。
「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。(1章1節から2節)」

 

●25節.山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが/わたしは生み出されていた。

 

この25節までの記述は、初代教会では、先在のキリストを示すものとして解釈されていました。
ヨハネの福音書1章1節から3節は次のように記しています。

 

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」。
ヨハネはこの知恵を「ことば=言」として表現しているのです。

 

●26節.大地も野も、地上の最初の塵も/まだ造られていなかった。
新改訳は、「神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。」です。
●27節.わたしはそこにいた/主が天をその位置に備え/深淵の面に輪を描いて境界とされたとき
新改訳は、「神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。」です。

 

わたしたちがいま目にしているこの天体、また自然界、いわゆる被造物が存在する以前に、すでに知恵はいました。
この知恵がこの宇宙、自然界を作ったのです。このことを考えても、この知恵がどれだけすぐれ、想像を絶する存在かが分かります。
また、知恵なくして自然にこの被造物が生まれることは考えられません。

 

被造物はすべて、目的があって計画のもとに作られたのです。
知恵が被造物を造るさいに用いられた知恵と同じ知恵が、わたしたちに、わたしに従え、悪から離れよ、と言っているのです。
22節から27節では、知恵の先在性について語られています。

 

パウロの言葉を記しておきます。
「私たちの語るのは隠された奥義としての神の知恵であって、それは神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前からあらかじめ定められていたもの」

 

神の知恵はわたしたちの目に見えないものですが、パウロは次のように述べています。
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。第二コリント4章18節

 

創世記1章1節以前に、すでに「知恵であるわたし」はいたのです。
それでは、どのようなあり方で存在していたのでしょうか。

 

パウロはコロサイ人への手紙1章15節から17節で「御子」について、以下のように述べています。
15節、御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。
16節、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。
17節、御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

 

●28節.主が上から雲に力をもたせ/深淵の源に勢いを与えられたとき
です。
新改訳は「神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、」です。
●29節.この原始の海に境界を定め/水が岸を越えないようにし/大地の基を定められたとき。
●30節.御もとにあって、わたしは巧みな者となり/日々、主を楽しませる者となって/絶えず主の御前で楽を奏し
新改訳は、「わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、
●31節.主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し/人の子らと共に楽しむ。
新改訳は、「神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。」です。

 

神と共にあって知恵は、創造の前に存在していただけでなく、その創造の過程に深く関わっていました。
知恵は被造物を見て、それを喜びました。

 

知恵がこのような感情を持っておられると言うことは、神もこのように感情を持っておられると言うことです。
そういう意味で、知恵は抽象的な存在ではなく、わたしたちの日々の営みに喜び、また悲しんでくださる方なのです。

 

日々の創造において、「知恵であるわたし」は「地上の人々と共に楽を奏し/人の子らと共に楽しむ。」ですから、御父の御前で「楽しみ」つつ創造したようです。

 

そして、主の造られた「地上の人々と共に」楽しんだことが記されています。
その「楽しみ」は「共に楽を奏し」とありますから、エデンの園にはそうした神と人との楽しみがあったことを示唆しています。

 

●32節.さて、子らよ、わたしに聞き従え。わたしの道を守る者は、いかに幸いなことか。

 

32節から36節で、知恵に聴き従うように、すべてのものを招いています。
そして、知恵自体が子どもらの父である「私」ではなく、「わたしに聞き従え。」と言って、この知恵の側にいなさいと勧めています。

 

●33節.諭しに聞き従って知恵を得よ。なおざりにしてはならない。
●34節.わたしに聞き従う者、日々、わたしの扉をうかがい/戸口の柱を見守る者は、いかに幸いなことか。
●35節.わたしを見いだす者は命を見いだし/主に喜び迎えていただくことができる。

 

「諭しに聞き従って知恵を得よ」と言い、それは「いかに幸いなことか」とし、そして、「なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただくからだ。」とします。

 

知恵と共に生きる生活を求めておられるのです。
こうして読むと、新約聖書の使徒の言葉がすべて当てはまります。知恵はキリストを指していると思いますが、コヘレトはイエス・キリストを知りません。

 

●36節.わたしを見失う者は魂をそこなう。わたしを憎む者は死を愛する者。」
新改訳は、「わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する。」です。

 

宇宙・地球の生態系・人間など被造物を心新たにして見直すと、そのすべてが言葉では言い表せないほど緻密に、かつ精巧に造られていることがわかります。

 

そのデザインは決して偶然にできたものではなく、知恵である方によって造られているのです。
わたしたち目に見えるものはそのごく一部に過ぎませんが、目に見えるものは、目に見えないものによって支えられていることも知るべきです。

 

このことは、たとえキリストを、創造主の存在を信じていない人においても否定はできないでしょう。
目に見えないものにこそ目を留め、「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」と言わなければならないのでしょう。

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