父の諭し⑶(3章)
聖書の箇所は、3章1節から12節です。
この章も2章と同様に「わが子よ」)で始まっています。
2章では、「もし・・・するなら、そのとき、あなたは・・するだろう。」という定型文となっていました。
3章1節から12節における「命令形」はすべて2人称男性単数で「・・しなさい。そうすれば・・であろう。」、「・・してはならない。(なぜなら)・・」という表現方法が使われています。
これは、文体によって子どもたちが父のことばを覚えやすいように工夫されているのでしょう。
●1節.わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。
●2節.そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し/平和が与えられるであろう。
両親は、「わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。」と、子供に教え、命じなければいけません。
言い換えれば、子供は、主にあって訓戒し、主にあって教育するのでしょう。
それで初めて子供は(主からの)両親の助言に耳を傾け、両親に従うことができるのです。
●3節.慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び/心の中の板に書き記すがよい。
●4節.そうすれば、神と人の目に/好意を得、成功するであろう。
「・・すれば・・であろう。」の形です。条件を付けて約束する場合の表現です。
「慈しみとまこと」を捨てないで、「それらを首に結び」ですから、しっかりと握り締めていれば、「神と人の目に/好意を得、成功する」という約束です。
●5節.心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず
●6節.常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず」と言うことは、自分は何もしないように聞こえます。
「心を尽くして」は、よく考えてという意味もあるそうです。
聖書が言っている「主に信頼」は、自分には拠り頼むことはできないので、主のみに頼っていくという能動的、積極的な意味だそうです。
なぜなら、神はわたしたちにできることを命じられるのではなく、わたしたちが神を信じて、神がわたしたちを通して行なわれることを命じておられるからです。
だから、「心を尽くして主に信頼」しないと、何もすることができないのです。
「自分の分別には頼らず」と言うのは、主を信頼し、主により頼むと言うことでしょう。
主の言葉を信じていないと、わたしたちは自分の悟り、自分が経験したこと、自分が考えたことに基づいて、無意識の内に行動に移しています。
「常に主を覚えてあなたの道を歩け」ですが、これは、神がいたるところにおられて、支配されていることを認めること、神の主権を認めることを意味しているのでしょう。
そうすれば「主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」という約束が得られます。
どこに行けばよいか分からない道があっても、主がまっすぐにしてくださいます。つまり、主は最善の道を示してくださるのです。
●7節.自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。
自分を知恵ある者として、自分は大丈夫だ、このくらいの悪には近づいても良いだろう、とわたしたちはよく自分を甘やかします。
それは、自分がそのような悪を行なうことはないという(根拠のない)自信を持っているからです。
自己中心的な性格を持つ人間の知恵などで、悪に対抗できるものではありません。
主により頼み、主の知恵を聞く必要があるでしょう。
●8節.そうすれば、あなたの筋肉は柔軟になり/あなたの骨は潤されるであろう。
わたしたちは、霊・魂・体の三つの部分で成り立っています。
「主を畏れ、」つまり霊的な事柄で、平安を持つことができれば、それは魂にもそして体にも良い影響を与えます。
●9節.それぞれの収穫物の初物をささげ/豊かに持っている中からささげて主を敬え。
●10節.そうすれば、主はあなたの倉に穀物を満たし/搾り場に新しい酒を溢れさせてくださる。
「収穫物の初物をささげ」ですから、この箇所も、自分の悟りや知恵に頼らず、主に拠り頼むことに関係しているのでしょう。
わたしたちが自分の財産と収入の初めを主にささげれば、主がそれを豊かに祝福され、自分は豊かにされるのです。
これは旧約聖書の時代に事で、キリストが来られた今は、キリストの十字架ですでに罪は贖われ、信仰により祝福され、救われるのです。
捧げもの、すなわち、行いにより罪が贖われるのではありません。
申命記26章には土地取得による危機を免れるためのいくつかの神の恵みの手段が語られていますが、その一つが初穂(初物)をささげることです。
それをささげることは、主こそすべての収穫をもたらすお方であるという信仰の告白の行為なのでしょう。
●11節.わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。
●12節.かわいい息子を懲らしめる父のように/主は愛する者を懲らしめられる。
「自分の悟りに頼らず、主に頼れ」に関係する言葉です。
主は、「かわいい子」「愛する者」を懲らしめるのです。
子供たちが何か悪さをしているとき、父親が叱るのはまず自分の子です。
ですから、懲らしめられるというのは、自分が主の子であることを証ししているのです。
« 父の諭し⑵(2章) | トップページ | 知恵の勧め⑵(3章) »
「箴言を読む」カテゴリの記事
- ソロモンの箴言(補遺)(26章)(2022.02.17)
- ソロモンの箴言(補遺)(25章)(2022.02.17)
- 有能な妻(31章)(2022.02.11)
- レムエルの言葉(31章)(2022.02.11)
- アグルの言葉(30章)(2022.02.11)
コメント