父の諭し⑸(4章)
聖書の箇所は、4章1節から27節です。
●1節.子らよ、父の諭しを聞け/分別をわきまえるために、耳を傾けよ。
「わが子よ」ではなく「子らよ」で複数ですね。
自分は一人子であったが、自分の子供は複数である、と言うことでしょうか。
●2節.わたしは幸いを説いているのだ。わたしの教えを捨ててはならない。
●3節.わたしも父にとっては息子であり/母のもとでは、いとけない独り子であった。
新改訳は、「私が、私の父には、子であり、私の母にとっては、おとなしいひとり子であったとき、」です。
父が「わが子よ」とか「子らよ」と呼びかけて、伝えている教訓は、彼の父から譲り受けたものでした。
子の父をソロモンとすると、父はもちろんダビデで、母はベテ・シェバです。
ソロモンは、自分のことを「いとけない独り子」(新改訳はおとなしいひとり子」と呼んでいます。
父ダビデは勇士であり、男らしさ、勇ましさを持っていたのに対し、ソロモンはちょっとひ弱だったのでしょうか。
ダビデがこの世を去る前、ソロモンに、「あなたは勇ましく雄々しくあれ」(1列王2:2)」と言っています。
父自身が子どもだった時に、どのように父親が自分を教育したかを思い起こして語っているのです。
このように子供を主にあって訓戒し、訓練しなかったことで、ダビデは大きな教訓を学びました。
それで彼はソロモンにはしっかりと教えたようです。
●4節.父はわたしに教えて言った。「わたしの言葉をお前の心に保ち/わたしの戒めを守って、命を得よ。
この4節で、父が子供に伝えようとするすべてが語られています。
「私のことばを心に留め、私の命令を守って、生きよ。」です。
そこには「父から子へ、子からまたその子へ」という信仰継承の願いが込められているのでしょう。
重要なことは、自分の子どもたちが神を畏れるようになることで、そのために、父は責任をもって自分も受けた大切な教訓を子どもたちに伝えているのでしょう。
●5節.わたしの口が言いきかせることを/忘れるな、離れ去るな。知恵を獲得せよ、分別を獲得せよ。
●6節.知恵を捨てるな/彼女はあなたを見守ってくれる。分別を愛せよ/彼女はあなたを守ってくれる。
「知恵を捨てるな/・・守ってくれる。」ですから、知恵によって、あなたは守られ、保たれるという主にあっての訓戒です。
「彼女」と言うのは、「知恵を捨てるな/彼女は」ですから、知恵を指すのでしょう。そうすると、知恵は女性なのですね。
●7節.知恵の初めとして/知恵を獲得せよ。これまでに得たものすべてに代えても/分別を獲得せよ。
「知恵の初めとして/知恵を獲得せよ。」は、続く言葉を見ると、知恵を最優先事項にしなさいという意味でしょう。
「これまでに得たものすべてに代えても/分別を獲得せよ。」と言っていますが、子供への教育に、すべての財産を注ぎ込む勢いです。
現実的でなく、「分別を獲得せよ。」ですから、同じぐらいの情熱をもって、神の知恵、神の理解を得なければならないということでしょう。
なお、ここで言っているのは、あくまで「知識」でなく擬人化された「知恵」です。
●8節.知恵をふところに抱け/彼女はあなたを高めてくれる。分別を抱きしめよ/彼女はあなたに名誉を与えてくれる。
●9節.あなたの頭に優雅な冠を戴かせ/栄冠となってあなたを飾る。」
「知恵」という彼女に畏れ従えば、「あなたを高めてくれる」「名誉を与えてくれる。」「栄冠となってあなたを飾る。」と言っています。
このようにソロモンは、父ダビデから教えられた事を基にして、自分の子供たちに教え諭しています。
●10節.わが子よ、聞け、わたしの言うことを受け入れよ。そうすれば、命の年月は増す。
「わたしの言うことを受け入れよ。・・命の年月は増す。」とありますから、知恵と命は深く関わりがあるのでしょう。
●11節.わたしはあなたに知恵の道を教え/まっすぐな道にあなたを導いた。
新改訳は、「私は知恵の道をあなたに教え、正しい道筋にあなたを導いた。」です。
●12節.歩いても、あなたの足取りはたじろがず/走っても、つまずくことはないであろう。
新改訳は、「あなたが歩むとき、その歩みは妨げられず、走るときにも、つまずくことはない。」です。
●13節.諭しをとらえて放してはならない。それを守れ、それはあなたの命だ。
新改訳は、「訓戒を堅く握って、手放すな。それを見守れ。それはあなたのいのちだから。」です。
11節から13節は、「知恵」と「道」の関係がテーマです。
「知恵」には「神の知恵」もあれば、「この世の知恵」もあります。
「道」には「まっすぐな道」もあれば、「曲がった道」もあります。
箴言の父が子に教えようとしているのは、前者の「神の知恵」であり、「まっすぐな道」です。
では、「神の知恵」とか「まっすぐな道」とはどのようなものなのでしょうか。
11節を見ると、「知恵の道」と「まっすぐな道」(正しい道)とが同義的として書かれています。
「知恵」「道(道筋)」「正しい(まっすぐ)」というのは、すべて根源的な奥義を示唆している、つまり、神のご計画、神の御心、神のみ旨、神の目的において、「知恵」と「道」は同義だと言うことでしょう。
従って、「曲がった道」は、神に敵対する悪の道です。
●14節.神に逆らう者の道を歩くな。悪事をはたらく者の道を進むな。
悪者が自分の周りを行き来しているが、その仲間に入るな、という意味でしょう。
●15節.それを避けよ、その道を通るな。そこからそれて、通り過ぎよ。
「そこからそれて、通り過ぎよ。」ですから、「悪事をはたらく者の道」は、無視して避けることです。
なぜわざわざこのように言うかと考えると、わたしたちは、正義感から悪がどういうものか知らなければいけないと思ったり、自分は影響されないと思って、好奇心によって近づくことがあるからです。
わたしたちには、自分は引きずり込まれない、大丈夫と言う何の根拠もない自信がるからです。
●16節.彼らは悪事をはたらかずには床に就かず/他人をつまずかせなければ熟睡できない。
●17節.背信のパンを食べ、不法の酒を飲む。
16節と17節は、悪には際限がない、と言っているのでしょう。
一度、悪の味を知ると、それだけで終わりません。もっと悪を行ないたいと願います。悪に道は魅力的なもので、一つ悪を行えば、ばれなければ、また悪をしたくなるものです。
●18節.神に従う人の道は輝き出る光/進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。
新改訳は「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」です。
「神に従う人」(義人)の義は、「正しい」の意味ですが、女性形が使われているようです。「義」と「道」と「光」が登場しています。
この「義」が完全な形で現わされるのは神のご計画が完成した時です。
つまり、クリスチャンから見れば、キリストの再臨(空中再臨と地上再臨)の時です。
信仰によって義とされた者の道の行き着く所は、「あけぼのの光のように、いよいよ輝きを増して真昼となる」という預言があります。
●19節.神に逆らう者の道は闇に閉ざされ/何につまずいても、知ることはない。
「知ることはない」とありますから、悪は、自分自身を欺きますので、悪を行う者に、自分が何をやっているのか分からなくさせるのです。
●20節.わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしの言うことに耳を向けよ。
●21節. 見失うことなく、心に納めて守れ。
父は、「わたしの言葉を・・見失うことなく、心に納めて守れ。」と説きます。
●22節.それらに到達する者にとって、それは命となり/全身を健康にする。
神の御心に従って、正しい道を歩むと「それは命となり/全身を健康にする。」のです。
神の言葉に従って、心に留めて歩む者に、体の健康の約束が与えられています。
霊的な健康状態は、精神的、肉体的にも良い影響を与えると言うことでしょう。
●23節.何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。
何よりも「心を守れ」と言っています。
わたしたちの口から出る言葉は、悪い言葉も良い言葉も心から出ます。
新約聖書にイエスの言葉で「更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコ7章20から23)
心の中を、悪が支配して内容に、気を付けて守りなさいということでしょう。
新改訳では「力の限り、見張って、あなたの心を守れ。いのちの泉はこれからわく。」です。
●24節.曲がった言葉をあなたの口から退け/ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。
新改訳は「偽りを言う口をあなたから取り除き、曲がったことを言うくちびるをあなたから切り離せ。」です。
「曲がった言葉」「ひねくれた言葉」を発しないように警告しているのでしょう。
わたしたちは、悪い事をしていると、自ずとそれを隠したくなり言い訳をします。それがもとで偽りが生まれます。
●25節.目をまっすぐ前に注げ。あなたに対しているものに/まなざしを正しく向けよ。
新改訳は「あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐ見よ。」です。
正しい道を寄り道せずに歩きなさいと言うことでしょう。
●26節.どう足を進めるかをよく計るなら/あなたの道は常に確かなものとなろう。
新改訳は「あなたの足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を固く定めよ。」です。
心を「よく計るなら」ですが、「心を配り」(心を見守る)と言うことでしょうが、この世界は悪が支配していますから、人間の心は、いつも悪いこと(神のみこころに逆らうこと)を考えているのです。
そして、その悪いことを考えている思考によって、あらゆる行動が生まれるのです。
そしてその「心」が言葉を支配し、「行動」を支配しているのです。
ですから、なにゆえに、「心を見守る」必要があるのかと言えば、もし、この心の中で悪いことを考えれば、悪い生き方をすることになるのです。
しかし、神のみことばによって思考を一新するならば、神のみこころを知り、それにふさわしく生きることができるようになるのです。
●27節.どう足を進めるかをよく計るなら/あなたの道は常に確かなものとなろう。
新改訳は「右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。」です。
悪の道に入らないように、心の中も注意して見張るのも良いが、自分が今どういうところを歩いているかにも気を留めなさいということでしょう。
と言うことは、自分が今どういうところを歩いているかを見極めるのには、「神のみこころは何か」を神の概念で考えなければなりません。
そのために必要なのは「心の一新によって自分を変える」ことですが、それはどういうことなのでしょうか。
「心の一新」とは、「思考を一新する」ということですから、思考を一新するのに、人間的な概念によるのではなく、神の概念で物事を考えることを意味するのでしょう。
キリストの十字架と聖霊降臨が実現した今は、その神の概念で思考を一新するのには聖霊の働きが必要となるのでしょう。
聖霊による思考の一新はある意味、聖霊によるマインド・コントロール(思考の支配)です。
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