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2021年9月20日 (月)

知恵の勧⑴(1章)

聖書の箇所は、1章20節から33節です。
8節から19節で、父から子へ向けた教訓が語られた後に、ここ20節からは、擬人化された「知恵」が熱意をもって(預言者的に)人々に語りかけます。

 

ここでの「知恵」は複数形の名詞です。
ヘブル語の名詞が複数形で用いられるときはしばしば単数名詞として扱われているそうです。
畏敬や尊厳、強調や広がり「完全性」などを表したりするそうです。

 

●20節.知恵は巷に呼ばわり/広場に声をあげる。

 

この「知恵」は、複数形の名詞で、知恵の畏敬と尊厳を示すものだと言われています。
33節までは、知恵の訴えとそれに従う者に対する約束、訴えを拒絶して従わない者の破滅について記されています。

 

 

 

●21節.雑踏の街角で呼びかけ/城門の脇の通路で語りかける。
●22節.「いつまで/浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち/不遜な者は不遜であることを好み/愚か者は知ることをいとうのか。
「浅はかな者」というのは、道徳観念がなく、すぐに騙される人という意味だそうです。
●23節.立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら/見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ/わたしの言葉を示そう。「声を上げる」「呼びかける」「語り掛ける」等、知恵が生きた人間のように叫んでいます。

 

もちろんこれは比喩ですが、結論は、23節の「立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら/見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ/わたしの言葉を示そう。」でしょう。

 

言いたいことは、「立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら」いつどこででも、そして、知恵を求めるなら、その必要な瞬間に主の恵みによって与えられる、と言うことでしょう。

 

これは、主の「わたしの懲らしめを受け入れるなら」、つまり、「心を留めた者」に対する約束です。
この約束の内容は、26節と27節、33節から推測すると「安全」「平穏」の保障でしょう。

 

「知恵」が訴えている対象は「浅はかな者」「不遜な者」「愚か者」です。
その彼らに対する叱責は、
①「いつまで、浅はかであることに愛着をもち」
②「いつまで、不遜であることを好み」
③「いつまで、知ることをいとう」のかです。

 

「わたしの霊をあなたたちに注ぎ/わたしの言葉を示そう。」は、約束であり預言でしょう。
神の霊が注がれることによって、はじめて神のことばを理解し、悟ることができるのです。
この節から知恵の訴えは、「わたし」という第1人称に変わります。

 

●24節.しかし、わたしが呼びかけても拒み/手を伸べても意に介せず
●25節.わたしの勧めをことごとくなおざりにし/懲らしめを受け入れないなら

 

呼びかけは、擬人化された「知恵」ですが、他者を介して呼び掛けられるのでしょう。

 

●26節.あなたたちが災いに遭うとき、わたしは笑い/恐怖に襲われるとき、嘲笑うであろう。
●27節.恐怖が嵐のように襲い/災いがつむじ風のように起こり/苦難と苦悩があなたたちを襲うとき。」

 

「恐怖が嵐のように」「災いがつむじ風のように」ですが、「嵐」とか「つむじ風」は、神のさばきを表します。
突然の予期しない神のさばきによって「苦難と苦悩があなたたちを襲」います。

 

●28節.そのときになって/彼らがわたしを呼んでもわたしは答えず/捜し求めても/わたしを見いだすことはできない。

 

「そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。」(28節)とあります。
神のなさることには、何事も時があり、悔い改めのチャンスを逃すことは破滅の運命を免れることができなくなるということでしょう。

 

●29節.彼らは知ることをいとい/主を畏れることを選ばず
●30節.わたしの勧めに従わず/懲らしめをすべてないがしろにした。

 

箴言の擬人化された「知恵」も、多くの人々から拒絶を受けています。
熱心に語っても、「呼びかけても拒み/手を伸べても意に介せず」(24節)、「なおざりにし」(25節)、「受け入れない」(25節)とあります。

 

また、それを「いとい」(29節)、「選ばず」(29節)、「従わず」(30節)、「ないがしろにした」(30節)のです。
「知恵」に対して正しく向き合うということが如何に重要であり、かつ困難であるかを思い知らされます。

 

●31節.だから、自分たちの道が結んだ実を食べ/自分たちの意見に飽き足りるがよい。

 

創世記で、アダムが神の言葉に逆らい悪魔の誘いに乗って禁断の実を食べたことを表しているのでしょうか。
「自分たちの道が結んだ実を食べ」は、さばきは神の責任ではなく、自ら招いたものだとしています。

 

●32節.浅はかな者は座して死に至り/愚か者は無為の内に滅びる。
●33節.わたしに聞き従う人は確かな住まいを得/災難を恐れることなく平穏に暮らす。

 

「知恵」に聞き従う結果は、「確かな住まい」(安全)と「平穏」(安心)です。
反対に「知恵」の呼びかけを拒絶する者に待ちかまえているのは破滅です。
神様の知恵を拒絶し、自分の知恵に頼る危険を見ることができます。

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