最後の七つの災い(15章)
聖書の箇所は、ヨハネの黙示録15章1節から8節です。
前回までで、天使たちが出てきて、神の怒りの杯が地に注がれることについて読みました。
第一の御使いは、神の裁きが下る前に、永遠の福音を宣べ伝えました。
第二の御使いは、大バビロンが裁かれることを宣言しました。
第三の御使いは獣の国に住む者たちが、永遠の裁きの中に入ることを警告しました。
15章では、世界に最後の災害が臨もうとする前に、その災いがどこから来るのか、それは何のために来るのか、それを示す天上の光景が描かれます。
●1節.わたしはまた、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の天使が最後の七つの災いを携えていた。これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである。
「天にもう一つの大きな驚くべきしるし」とありますが、ヨハネは黙示録12章で、天における巨大なしるしを二つ見ました。
一つは身ごもった女で、これはイスラエルを(女が子(キリスト)を産んだ後はキリストの民)表していました。
もう一つは赤い竜であり、「赤い」は血を、「竜」は悪魔を表していました。
そして今、もう一つの巨大なしるしとして、最後の七つの災いを携えている七人の天使のしるしを見ます。
それは「大きな驚くべきしるし」ですが、最後の災いが最も恐ろしい事態だと言っているのでしょう。
これによって神の激しい怒りは「その極みに達する」からです。
なぜここまで神は怒られるのか、聖書では、神は怒るにおそく、忍耐深い方です。
けれども、義なる方ですから罪をそのままにしたり、許容したりすることは決してなさいません。
しかし、義なる方の、憐み深い方の強い怒りの中には、親が子を愛して厳しくしつけるように、義なる方の強い怒りには、愛しているから、罪を赦したいという思いが込められているのではないでしょうか。
そうでなければ、その様な面倒くさいことをせずに、すぐさま滅ぼされます。
どのような裁きも裁きは更生というか反省を促すためになされるものです。
●2節.わたしはまた、火が混じったガラスの海のようなものを見た。更に、獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たちを見た。彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。
ヨハネは、最後の七つの災害が世界に臨む前に、すでに勝利して天上で御座の前で勝利の歌をうたっている群れの幻を、すなわち、「獣に勝ち、その像に勝ち、またその名の数字に勝った者たち」(7章参照)を見ます。
まだ最後で最大の災いがあるのですが、小羊イエスに属する民はすでに獣に勝った者として、御座の前に現れ、神の竪琴を手にして、「神の僕モーセの歌と小羊の歌」(3節)をうたっています。
「火の混じったガラスの海」ですが、ガラスの海は、神の聖さと純潔の象徴で、火は神の怒りを表しているのでしょう(4章6節)。
「その名の数字」は、666(13章18節)で、「勝った者」は殉教者(患難時代の中期から後期に入って死んで霊的に勝利した殉教者)。
●3節.彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とをうたった。「全能者である神、主よ、/あなたの業は偉大で、/驚くべきもの。諸国の民の王よ、/あなたの道は正しく、また、真実なもの。
「モーセの歌」とありますが、それはモーセがイスラエルを率いて、紅海を渡り、エジプト軍が紅海の中で溺れ死んだときにうたった歌のことでしょう(出エジプト記15章1から18)。
主がイスラエルのために、大いなる驚くべきことを行なってくださったことを歌っています。
「小羊の歌」とは、小羊イエス・キリストの流された血によって、罪赦され、義と認められ、神の救いにあずかったことを喜ぶ歌でしょう(15章3節から4節の小羊を称える歌)。
どちらも救いに与った喜びの歌ですが、モーセの時は、エジプトという敵から救い出されたことを喜ぶ歌ですが、ここでは大患難で殉教にあった聖徒たちが、七つの災害が世界に臨む前に、すでに勝利して、獣(悪魔に支配された権力者、反キリストの帝国)とその国から救い出されたことを喜ぶ歌です。
実際の戦いはこれからですが、小羊に属する民は、すでに獣に勝った者として、神の僕モーセの歌と小羊の歌を歌っているのでしょう。
●4節.主よ、だれがあなたの名を畏れず、/たたえずにおられましょうか。聖なる方は、あなただけ。すべての国民が、来て、/あなたの前にひれ伏すでしょう。あなたの正しい裁きが、/明らかになったからです。」
3節から栄光のうちに殉教した者たちの歌が続きます。
「すでに勝利して天上で御座の前で勝利の歌をうたっている群れ」が、主が地上に再臨されて世界の王となられることを讃美しています。
「すべての国民が、来て、」ですから、イエスは、イスラエルの民、キリストの民だけの主だけではなく、すべての国々の主であるから、すべての民族、国民が聖なる都に来て、イエスをあがめ、ひれ伏します。
それは、イエスが再臨されて「正しい裁きが、(なされることが)/明らかになった」からです。すべての人が主の御名をほめたたえます。
●5節.この後、わたしが見ていると、天にある証しの幕屋の神殿が開かれた。
火の混じったガラスの海の幻を見たヨハネは、次に「証しの幕屋の神殿」の幻を見ました。
「証しの幕屋の神殿」は、至聖所、出エジプト38の21、民数記1の50.
地上の幕屋は天にあるものの模型になっています(ヘブル8章5節)から、天には本物の聖所があるのです。
「神殿は開かれた」ですが、神殿(の聖所)は、神が臨在される所ですから、その聖所が開かれたという事は、すべての人の目に神の権威と力とが、明らかにされるということで、神の最後のさばきが始まったということになります。
●6節.そして、この神殿から、七つの災いを携えた七人の天使が出て来た。天使たちは、輝く清い亜麻布の衣を着て、胸に金の帯を締めていた。
「証しの幕屋の神殿」から「七人の天使」が出てきます。
七人の天使ですから、七つの教会に対して、イエスがそれぞれ遣わされた天使とおなじ天使でしょうか。それとも、七という完全数に意味があるのでしょうか。
「七つの災い」は、七つの鉢の裁きのことでしょう。
彼らは、「輝く清い亜麻布の衣を着て、胸に金の帯を締めて」います。
「亜麻布の衣」を着て、「胸に金の帯」を締めていますから、栄光のイエスの姿を見て、そのイエスの姿を反映しているのでしょう。
●7節.そして、四つの生き物の中の一つが、世々限りなく生きておられる神の怒りが盛られた七つの金の鉢を、この七人の天使に渡した。
神の御前にいる「四つの生き物」(4章7節と8節)の一つが、七つの金の鉢を七人の御使いに渡します。
これには、「神の怒りが盛られ」ています。
14章10節の第二の御使いが、「神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、」ということでしょう。
「七人の天使」たちは、神の栄光と力に満ちた裁きを行うための「神の怒りが盛られた七つの金の鉢を」手にしています。
●8節.この神殿は、神の栄光とその力とから立ち上る煙で満たされ、七人の天使の七つの災いが終わるまでは、だれも神殿の中に入ることができなかった。
「立ち上がる煙」の「煙」は、神の栄光と力の象徴ですから、煙で満たされて、「だれも神殿の中に入ることができなかった。」とは、もはや、神の憐みの時が過ぎ去り、神の怒りをなだめる者がいなくなり、その時が終わったことを示しているのでしょう。
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聖書を学んで半年ですイエス様と出合い本当にうれしいです毎日5時間位勉強しています
よくりかい理解できましてとても感謝申し上げます。
投稿: 福田京子 | 2020年7月28日 (火) 17時07分