サルディスにある教会にあてた手紙(3章)
聖書の箇所は、ヨハネの黙示録3章1節から6節です
「サルディス」の意味は、残った者、逃れる者という意味だそうです。
対応する時代としては、16世紀から17世紀の宗教改革時代が考えられます。
カトリックから逃れるプロテスタントの時代でしょう。
「残った者」は、残されたカトリックの教会で、「逃れる者」は当然プロテスタントです。
●1節.サルディスにある教会の天使にこう書き送れ。『神の七つの霊と七つの星とを持っている方が、次のように言われる。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。
「サルディス」の町は、高原にある町で、ティアティラの町の南西にあり、古代ギリシアの城砦の町として知られていたということです。
そして、そこに入るには一つの道しかないので、難攻不落の町として知られていました。
「神の七つの霊と七つの星を持っている方」とは、七つの霊はその集会に使わされている天使のこと、七つの星は七つの教会のことで、それらを支配されている方(運命を握っておられる方)ですから、復活されたイエス・キリストを象徴的に表現しているのでしょう(七つの霊」は1章4節、「七つの星」は1章16節を参照)。
ですから、サルディスにある教会の運命はイエス・キリストが握っておられることを表しているのでしょう。
「あなたが生きているのは名ばかりで、実は死んでいる」ですが、「名」は、評判、名声を表すので、サルディスの教会は、「生きているのは名ばかり」、すなわち、評判ばかりがとても良い教会であったのでしょう。
しかし、神の目から見ると、実際は死んでいる状態であったのです。
「死んでいる」というのは、肉体的な死ではなく、神との関係において、御霊が働かれていない状態、霊的に死んでいる状態を意味する比喩的な表現なのでしょう。
このように、サルディスの教会については賞賛の言葉はなく、「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」と厳しい叱責だけがなされています。
しかし、神が叱責されるのは、愛するゆえですから、悔い改めを求めておられるのでしょう。
●2節.目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない。
「目を覚ませ」は、自分を取り巻く状況の中で、回りを含め自分自身を良く認識しなさい、そして、今、何をすべきか適切に判断しなさいということでしょう。
解説によると、「サルディス」の町は高地にあり、難攻不落でしたが、ペルシアによって、クロス王(549BC)の時とアンテオカス王(218BC)のときに二度にわたって征服されました。
それは難攻不落と信じきっていたので見張りを怠り、敵の攻めてくるのに備えなかったからだと言われています。
だから、「目を覚ませ」は、教会全体に対する呼びかけであり、そして、目を覚ました人は、「死にかけている残りの者たちを強めよ」ですから、他の人に当然働きかけて、眠り(死)に陥ろうとしている人を覚醒させなさいということでしょう。
そうすることが、自分たちが目を覚まし続けていく上でもとても有効でもあるということでしょう。
「あなたの行いが、わたしの神の前に完全な者とは認めない」という状況は、どのような状況かと推測すると、御霊が働かれていない状況ですから、神との関係が生き生きとしていない、すなわち、当時の社会の状況に流され、信仰はマンネリ化し、いい加減になり、眠っている状態でしょうか。
冷たくも熱くもない生ぬるい状態、霊的無気力状態と言えます。
●3節.だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ。もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない。
ここでは、福音を受けたときの初心に立ち返り、その初心を主が来られる時まで維持するように 求められています。
霊的無気力状態にあるサルディスの教会の信徒に、ヨハネは信仰のリバイバルを求めているのです。
「どのように受け、また聞いたかを思い起こして」とは、「目を覚ましていないなら、」とありますから、目を覚ますとは、最初に神の言葉に出会い、熱心に聞いたときの感激とそれを受け入れたときの自分たちの姿を思い出すことを言っているのでしょうから、その反対の状況にあるなら、ということになります。
それは、サルディスの人たちの信仰の出発点であり、彼らの人生の根拠となったものです。
そして、「それを守り抜き、かつ悔い改めよ。」とは、それを絶えず思い起こし、原点に立ち返りなさいということでしょう。
新しい教えを取り入れるのではなく、最初に教えられたことを堅く守り、その教えにしたがって、悔い改めなさいと言っているのでしょう。
キリストに出会った最初のころを「思い起こす」ことが、日々の生活の力となるのです。
神の救済の出来事を思い起すことによって、今でも信じる者の生活に神が介入して、その救済の働きをなされていることを知るからです。
過去の神の出来事を想起するとき、信仰は生き生きとした生命力を取り戻し、困難を克服する力を得るのでしょう。
「もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない」は、目を覚ましていない人は、キリストの再臨があっても、その再臨は、盗人ように突然やってくるので、予想外の出来事として驚き慌てふためきます(マタイの福音書24章42節から44節ほかを参照。)。
そのことを言っているのでしょう。
●4節. しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。そうするにふさわしい者たちだからである。
「少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる」の「衣」とは、イエス・キリストを受け入れると、その人は罪の衣を脱ぎ捨て、神から新しく義の衣をいただきますので、そのことを言っているのでしょう。
ですから、「義の衣」という表現は、イエス・キリストを受け入れた人間の神に対する関係ですから、信徒たちの(神に対する)正しい行いを指しているのでしょう。
「汚さない」とは、当初の信仰を忘れないで、世の汚れに染まらない、神に対して忠実な人のことを言っているのでしょう。
「白い衣を着てわたしと共に歩く」は、衣を汚さない者に約束される勝利の姿を表しているのでしょう。
それは、キリストの血によって、罪が赦され、浄められ、また義と認められた姿、ということでしょう。
このように、「衣」も「白い衣」も一方的に神から与えられる恩恵としての「衣」ですから、「衣」を着るとは、信仰によって義とされた経験を象徴的に表現していることになります。
●5節.勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。
「勝利を得る者」は、白い衣を着せられるが、汚さない、つまり、神に忠実な者ですが、その報いは、「白い衣を着せられる」「命の書に名前がとどめられる」「彼の名が父なる神と天使の前で公表される」ということです。
なお、「彼の名を決して命の書から消すことはなく、」というのは、いったん与えられた永遠のいのちが取り上げられることはない、ということでしょう。
「命の書に名前がとどめられる」ですが、命の書に名が記されることは、ユダヤ教では神の民に所属していることの証明です(ダニエル12章1節に「あの書」とあります)。
●6節.耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』
今まで述べてきたことのメッセージの大切さを強調しています。
「“霊”が諸教会に告げること」とは、神と人間の正しいあり方、そして人間の永遠に関わることを言っているのでしょう。
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コメント
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ありがとうございました。サルディスの教会のように死んでいる教会ではないのか、と日曜の礼拝で、牧師が言われていたので、サルディスの教会を知りたかったときに与えられたことを感謝します。生ぬるくて、口から吐き出さられないよう。初心に帰り、進みます。感謝です💕
投稿: | 2023年9月19日 (火) 18時01分