キリスト者にふさわしい生活の勧告(12章)
聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙12章14節から29節です。
●14節.すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。
「すべての人との平和を、また聖なる生活」を追い求めるように勧告します。
そのために、苦難によってもたらされた汚れた思いが取り除かれるように、御霊によって聖くされなさいということでしょう。
聖くなければ、主を見ることができないのです。
●15節.神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。
「苦い根が現れてあなたがたを悩まし、」とあるのは、わたしたちは、苦難の中にあるときは、苦難がその人の心をむしばむどころか、人格にも影響を及ぼし、多くの人が(不品行に)汚されることがありますので、「苦い根が現れて」というのはそのことを言っているのでしょう。
●16節.また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。
●17節.あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。
著者は、15節までの勧告の例として、聖書に出てくる、一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウの例をあげて、世俗の欲に埋没して、「長子の権利を譲り渡したエサウ」、のように神の恩恵から落ちることのないようにと警告しているのでしょう。
エサウは、後で父イサクに祝福(長子が受けるべき祝福)を願いましたが、「拒絶された」とあります。
それは、彼は自分が行なったことが間違っていたとは思っていなくて、ただ祝福がもらえないことを悲しんでいるだけであったからだとされています。
悲しんでいるだけなら、悔い改めているわけではないのです。
悔い改めは、自分が罪を犯したことを認めて、再び罪を犯さないようにします。
何度罪を犯しても悔い改めれば救われるという方もおられますが、本当に悔い改めれば、のどと同じ罪は犯さないものです。
後悔だけなら自分がしたことを悔いはしますが、それを変えようとはしません。
●18節-19節.あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。
ここ18節から24節で著者は、この世の苦難の旅路を励ますために、シオンの山で象徴される神の都がいかに栄光に満ちたものであるかを、イスラエルの民が近づいたシナイ山と対照して描いています。
「燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声」というのは、そのシナイ山の状況を表しているのでしょう。
そして、著者は読者に、あなたがたはそのような恐ろしくものすごい光景に「近づいたのではありません。」(神に近づくという意味で)としています。
●20節.彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。
この命令は、出エジプト19章12節の引用です。
イスラエルの民は、シナイ山に触れることが厳しく禁じられていたのですが、山に近づいたのは、山に登ったモーセがなかなか下山してこないのが待ちきれず、ふもとで待つように言われた命令に耐えられなかった、待ちきれなかったからだとします。
●21節.また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。
モーセですら、「おびえ、震えて」いました。
●22節.しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、
●23節.天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、
●24節.新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。
シナイ山に近づいたイスラエルの民に対比して、キリストの民が近づいているのは、「シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血」(22節から24節)です。
同じ神に近づくのでも大きく違います。
●25節.あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。
このように比較対照した上で、地上で御旨を告げたモーセを拒む者が罰を逃れられなかったのであれば、「天から御旨を告げる方(イエスや使徒たちが告げる御旨ということでしょう)に背を向けるわたしたちは、なおさら」ですから、さらに重大な結果をもたらすと警告しています。
●26節.あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」
「あのとき」ですから、シナイ山においては、神の「御声が地を揺り動かしましたが、」今度は地だけではなく「天をも揺り動かそう。」とあります。
●27節.この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。
「もう一度」天地が揺り動かされるときがあるのは、「揺り動かされないもの」、すなわち、揺り動かされることのない御国が存続するためだとします。
●28節.このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。
そのようにわたしたちが受けている特権、「揺り動かされることのない御国」に感謝し、「畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。」と、今まで述べた勧告を締めくくります。
なお、「もはや揺り動かされることのない御国」という表現は、著者が預言(ハガイ2章6節)から出た黙示思想的終末観(現在の宇宙が震われ消え去った後に永遠の御国が現れるとする終末観。マタイ24章29節)の枠組みで思考していることを示しているのでしょう。
●29節.実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。
「焼き尽くす火」ですが、「火」は裁きであり清めることを意味しますから、主は、すべてのものを裁かれる火であるし、また(神に喜ばれる生活を送っている者にとっては)清めのための火でもあるということでしょう。
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