神に喜ばれる奉仕(13章)
聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙13章1節から25節です。
●1節.兄弟としていつも愛し合いなさい。
著者は、ここから18節まで、神に喜ばれるように仕える道を、実際的な訓戒で示します。
「兄弟愛」というのは、人は困難な中においては、つまり、迫害の中においては、主にある一体感が増します。
その中で、キリストにある者は互いに励ましあい助け合うことが求められているのでしょう。
●2節.旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。
1節から3節は、迫害下の中における勧めでしょう。
「気づかずに天使たちをもてなしました。」とあるのは、創世記24章のアブラハムの物語で、アブラハムは三人の人を家に迎えもてなしましたが、その三人は天使であると気が付かないでもてなしたのです。
その話を例として、旅人であるからといって粗末に軽くあしらわないで、むしろ、主が送ってきてくださった方として、もてなすことが大事なのだと勧告します。
ということは、主にあるキリストの兄弟姉妹ではない人々にも同じように兄弟愛を示しなさいということでしょう。
●3節.自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。
「牢に捕らわれている人たちを思いやり」ですが、これは信仰のゆえに、牢に入れられた人々のことを言っているのでしょう。
「自分も体を持って生きている」とありますが、わたしたちは、牢獄での生活がいかに辛いことであるかを自分にも肉体があるのですから、容易に想像できるということでしょう。
だから、自分が自分の肉体を大事にするように、牢にいる人々も思いやりなさい、という勧めでしょう。
●4節.結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。
「夫婦の関係は汚して」ですから、不品行や姦淫についての警告でしょう。
つまり、性交渉は、結婚の中のみで祝され、聖なるものとみなされるのです。
逆に婚前交渉、婚外交渉は神の怒りを招きます。
●5節.金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。
「金銭に執着しない生活」ですから、金銭を愛してはならないという戒めです。
大事なのは、「今持っているもので満足」することでしょう。
わたしたちは、金銭的に将来に不安があるから今持っているもので満足できないのですが,著者はその保証として、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われた神の約束があるとしています。
●6節.だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」
主が助けてくださるから、「わたしは(人間を)恐れない」のです。
主が助けてくださる。自分が独りでも、主がともにいてくださる。という確信が、苦難の中もなお主に対して忠実でいられる原動力となるのでしょう。
●7節.あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。
指導者に従うことの勧めが初めて出てきました。
指導者にもいろいろありますから疑問があるのですが、「彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。」とありますから、その指導者はもうすでに亡くなっているということです。
それなら、その指導者が歩まれた道は、すなわち、キリストに倣って歩いているのか、その信仰生活に変わりはなかったかについてはっきりしているのですから、その信仰を見習っても問題はありません。
明らかにおかしいと思われると見倣う必要はないのですからね。
●8節.イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
「神の言葉を語った指導者たち」を模範とするように語ったその関連で、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」という重要な言葉が出て来ます。
前の文に続いて、キリストに倣って歩いた過去の指導者は、キリストがいつまでも変わらないように、その信仰生活に変わることがなかったということを言っているのでしょうか。
●9節.いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。
「神の言葉を語った指導者たち」を模範とする理由は、キリストに倣うというほかに、「異なった教えに迷わされ」ないようにするためでした。
当時におけるユダヤ人キリスト信徒にとっての大きな信仰上の戦いは、ここに書かれているように食物規定であったようです。
けれどもここでは「食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。」としています。
律法の食物規定を守らなくてもよいと言っているのです。
食物は神の恵みですから何を食べてもよいのです。
●10節.わたしたちには一つの祭壇があります。幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません。
●11節.なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。
「わたしたちには一つの祭壇」(10節)ですが、祭壇と犠牲の宗教はキリストの贖いの十字架によって終わりを告げたというのが、わたしたちの認識です。
だからここで言っている祭壇は次元の違うものだと思います。
それは何か。それはわたしたち一人ひとりの内に住まわれる聖霊、すなわち、キリストその人だと思うのです。
「幕屋」というのは、ユダヤ教神殿にある青銅の祭壇があるところのことでしょう。
その祭壇を例に挙げて著者は説きます。
祭壇においては、いくつかの献げものがなされるのですが、その一つが、罪を贖うための生贄です。
この生贄は、牛や羊をほふるとき、祭壇の上では脂肪の部分だけを焼きます。
そして、肉の部分をはじめ、脂肪以外の部分をすべて、イスラエル人たちが宿営している、その宿営から出たところの、灰捨て場に運び出し、そこで火で焼きます。
これは罪あるものとされた生贄が、宿営の外に運ばれることによって、イスラエル人から罪が引き離されたことを示すためのものです(レビ記4章参照)。
さらに、大祭司が年に一度、至聖所に入ってイスラエルの民の罪の贖いをする贖罪日のときにも、罪を贖うための生贄を献げますが、大祭司はその生贄の血を取って、それを至聖所の中の贖いの蓋のところに振りかけて、神の怒りをなだめるのです。
●12節.それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。
「門の外で苦難に遭われた」は、キリストの十字架を指すのでしょう。
イエスは大祭司として、神の御座のところに、十字架で流された血を持っていき、それで、わたしたちの罪の贖いが完全に行なわれました。
「門の外」は、イエスの肉体が宿営の外、あるいは門の外に連れて行かれたことを示唆しているようです。これはいったい、どういうことなのでしょうか。
イエスは、エルサレムで十字架刑の宣告を受けられた後、その形の執行のために、エルサレムの外に連れて行かれましたから、そのことを指しているのではないでしょうか。
そうであれば、幕屋の祭壇において罪を贖う生贄が献げられたとき、肉の部分をはじめ、脂肪以外の部分が、宿営の外で焼かれたと同じように、イエスの肉体はエルサレムの門の外で引き裂かれたことを指しているということになります。
●13節.だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。
今、こうして辱めを受けているあなたがたも、宿営(ユダヤ人共同体)の外に出ようではないか、と勧めているのでしょう。
イエスがユダヤ人の共同体から疎外されて、エルサレムの町の外に連れていかれたように、あなたがた(ユダヤ人)キリストの信徒たちも、ユダヤ人の共同体から村八分にされても、すなわち、「イエスが受けられた辱めを担い」、「宿営の外」ですから、ユダヤ人共同体から出て、イエスの「みもとに赴こう」ではないか、ということでしょう。
ユダヤ人信徒は、ユダヤ人共同体の中に留まりたかったのでしょう。
当時ユダヤ人がその共同体から外れることは、生死にかかわることであったようです。
●14節.わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。
キリストの民の故郷はこの地上ではなく、天であります。
自分が住む都が、この世のものではなく、天から下りて来るものであることを知るならば、キリストの民は、その苦しみをむしろ喜びをもって受けることができるのです。
キリストの民は、キリストの御名のゆえに苦しみを受ければ受けるほど、それを喜ばしく思うのです。それは、キリスト信仰の歴史の中に見られます。
日本における過去のキリストの民の殉教の歴史を見ても、まだ10歳にも満たない幼い子供たちが、自分の首に刀が振り落とされそうになることを知って、ますます喜び、神に賛美をささげ、その顔は笑顔であったという記録があります。
彼らが一様に口にしていた告白は、「パライソ」です。天国のことです。
天国に行けることの喜びがあったのです。
その信仰にはすごいものがありますね。人間の勇気などではなく、御霊の働きなのでしょう。
●15節.だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。
●16節.善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。
ユダヤ人たちは、神殿において動物の生贄を献げていました。
キリストの民の献げものは、神を賛美することですから、その賛美を生贄として献げることができます。
同様に、「善い行いと施し」(16節)を行うことも神は喜ばれます。
●17節.指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないと、あなたがたに益となりません。
前にも書きましたが、指導者に従わなければいけない、という勧めです。
その理由は、彼らが神の前で申し開きしなければいけない(責任ある)立場であり、信者たちの魂の監督をしているから、としています。
なお、キリストにある兄弟姉妹と交わらなくても、自分ひとりでも礼拝が守れる、という考えもありますが、苦難にあい、信仰が試されるときには、一人で信仰を守ることは大変です。同じ仲間の存在は力強いものです。
そう、キリストを受け入れたものが二人以上いるところに、わたしはいる、とイエスは言われました。
●18節.わたしたちのために祈ってください。わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています。
●19節.特にお願いします。どうか、わたしがあなたがたのところへ早く帰れるように、祈ってください。
「わたしたちのために祈ってください」(18節)ということは、著者は、この手紙の読者であるヘブライ人信徒の群れの中に事情があって帰れないので、帰れるように祈ってくださいということでしょう。
「良心を持っている」とか、「立派にふるまいたい」と言っていますから、著者は、(行いに)何かの問題があり、読者であるヘブライ人信徒の群れから出ていった信徒、あるいは指導者でしょうか。
それとも、19節に「早く帰れるように、祈ってください。」とありますから、(ユダヤ人に)捕らわれの身であるかも知れません。
●20節.永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、
●21節.御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。
最後に「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神」(20節)への頌栄(21節)が置かれて、この長い勧告の手紙が結ばれます。
●22節.兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください、実際、わたしは手短に書いたのですから。
●23節.わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒にわたしはあなたがたに会えるでしょう。
●24節.あなたがたのすべての指導者たち、またすべての聖なる者たちによろしく。イタリア出身の人たちが、あなたがたによろしくと言っています。
●25節.恵みがあなたがた一同と共にあるように。
22節から25節は手紙の結びの挨拶です。
「わたしたちの兄弟テモテ」とありますから、この手紙の著者は、パウロのようにも思えますが、パウロなら自分の名前を書くでしょうからそうではないと思います。
そして、テモテは牢に繋がれていて釈放されたことが書かれています。
パウロと同じように、この手紙も、「恵みがあなたがた一同と共にあるように。」で締めくくられています。
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