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2019年11月 2日 (土)

奨励と勧告(10章)

聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙10章19節から39節です。

 

●19節.それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。

 

著者は「それで」という言葉で切り出し、内容を改めて書き始めます。

 

ここまでは、神の御子キリストは御使いよりもすぐれた方で、わたしたちの救いの道を備えられ、また聖書の言葉を用いて、アロンの祭司職よりも偉大なメルキゼデクの祭司(モーセ律法より前の時代のこと)となられたことについて書いてきました。

 

そして、モーセを通して与えられた神との古い契約(モーセ律法)は、キリストによる新しい契約(福音)によって取って代えられて、この新しい契約が古い契約よりも、すぐれたものであるとします。

 

ここからは、キリストがいかにすぐれた方であるかを知った人たちが、そのことに対しどのように応えていくかが問題になるのでしょう。
著者は、「聖所に入れると確信しています」と皆に自分の信仰を語っています。

 

聖所に入るということは、神に近づき、神の御許もとの中に留まることができるということでしょう。

 

あるいは、この世においては、神の霊、聖霊による神との親密で深い交わりの場に入れられるということになります。

 

著者は、わたしたちはイエスの血によって、完全に清められたのだから、確信をもって、自由に、大胆に神に近づくことができる、と信じていると言っているのでしょう。

 

そのような場に入るためには、「イエスの血に」よらなければならないのです。

 

 

神に近づくには、わたしたちが善行とか宗教的な諸活動(いわゆる祭儀)をする必要はない、いや、それらは無意味なのです。

 

ですから、イエスが十字架で血を流して死なれた意味は、9章22節にあるように、血が流されることなしには、罪の赦しはないのですから、それは神の愛を示すためだけではなく、わたしたちの罪を赦すために贖いの血を流すことであったということになります。

 

●20節.イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。

 

「御自分の肉を通って」とは、キリストはご自分の肉体をまとってこの世に現われて、その血を十字架につけられて流されて、罪を贖ってくださったということでしょう。

 

「垂れ幕」というのは、聖所の中にある、聖所と至聖所を分けている幕のことです。

 

聖書にイエスが十字架につけられていたときに、神殿の垂れ幕が上から下に、真っ二つに引き裂かれた(マタイの福音書27章51節)とありますが、それは神と人間の間を遮るものがなくなったことを象徴しているのでしょう。

 

よって、わたしたちには「新しい生きた道」が開かれたのです。

 

いや、神はイエスによって「新しい生きた道」を開いてくださったのです。

 

●21節.更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、 

 

真の聖所である「神の家」では、「偉大な祭司」であるイエスがおられて、わたしたちのために執り成しの祈りをし、わたしたちの弁護者となって下さっています。

 

「神の家を支配する」ですから、イエスは神の家の支配者でもあるのです。

 

●22節.心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。

 

「心は清められて、良心のとがめはなくなり、」ですが、動物の生贄では心は清められるとか、良心の咎めがなくなるというようなことはありませんから、キリストの流された血によって、すなわち、イエスの福音を信じる者に聖霊が内住されますから、その聖霊によって、その者の心と良心が清められ心から神に近づくことができるということでしょう。

 

著者は「心と良心」と特定しています。

 

心は感情の奥深い部分、良心は神からのもので善悪を測る基準です。

 

この二つがわたしたちに備わっていることによって、わたしたちと神は関わりを持っているということでしょう。

 

神の御霊、聖霊がわたしたちの潜在意識に住まわれて、心を支配されて初めてわたしたちは神を知ることができるようになります。

 

「心と良心」が御霊によって清められていないと、神を敬っていてもそれは外側だけのことです。

 

外側だけで神を敬っているのは、敬っている振りをしているということですから、それでは、やがて自責の念に駆られるようになり、かえって罪を犯して、重荷を背負うだけとなります。

 

わたしたちは、御霊によって清められた心と良心が一致して初めて、本当に意味で良い行ないをすることができるようになり、良心のとがめからも自由になれるのです。

 

ヨハネの福音書8章21節以降の「真理はあなたたちを自由にする」はそのことを言っているのでしょう。

 

「体は清い水で洗われ」というのは、水による洗礼のことを言っているのでしょう。

 

「信頼しきって、真心から神に近づく」ですから、心に疑いをもたないで、真心から神に近づくことを指しているのでしょう。

 

信仰とは、キリストの福音を自分のものとする媒体であり、神を知り、神に近づくことができる唯一の方法です。

 

そして、真の信仰は御霊の働きによって得られるものと思います。

 

●23節.約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。

 

約束してくださったのは神ですから、たしかに「真実な方」(約束したことは必ず守られる方)です。

 

「公に言い表した」というのは、イエスがメシアだと公に告白すること、つまり信仰を告白することです。

 

イエスをメシアと告白し、イエスが語られた福音を、希望をもって保ち、それに望みを置くことですね。

 

わたしたちが持っているこの希望が「・・魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。」(6章19節)。

 

その希望は、もちろん、御霊によってもたらされますので、わたしたちの内に内住される御霊は、わたしたちの魂にとって、(神の国への)「安定した錨」の役を果たす、ということでしょう。

 

わたしたちは毎日、この世の移り行く、目に見えるものを信じて生きていますから、その目に見えるものに振り回されて、動揺したり、落胆したりして真実が見えなくなるものですが、そのような中においても、神が与えてくださった信仰によって(御霊によって)神に近づき、それによってもたらされた希望をしっかりと保ち続けることができるということでしょう。

 

●24節.互いに愛と善行に励むように心がけ、

 

信仰と希望の次に大切なのは、「愛」です。

 

愛は、信仰と希望を持っている人が、自然に御霊の実として結ばれるものです。

 

神はわたしたちを愛するがゆえに、ご自分の御子を生贄にして、わたしたちの罪を贖ってくださったのですから、神の人類救済のご計画の動機は愛です。

 

その御子キリストに信仰と希望を持っている者は、神の愛の中にとどまります。

 

そしてその愛は、他の兄弟たちと「互いに愛と善行」をもって分かち合うことによって実現されるのです。

 

「心がけ、」とありますから、「愛と善行に励むように」(いつも)気をつけなさいということでしょう。

 

愛と善行は気を抜くと得てして冷えやすいものですから、いつも冷えないように互いに励ましあって、愛し合いなさいということでしょう。

 

そう、愛には行いが伴うのです。

 

●25節.ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。

 

19節から25節をまとめると、著者は、わたしたちには永遠の贖いを成し遂げてくださった大祭司キリストがおられるのですから、信仰の生涯を互いに励ましあって全うしようではないかと呼びかけ、実践的な勧告をします。

 

まず著者は、イエスがその血によって切り開いてくださった「新しい生きた道」(20節)を通って至聖所に入り、神に近づき、「公に言い表している希望(信仰)」(23節)を貫こうではないかと呼びかけます。

 

すなわち、大祭司キリストの贖罪の業によって「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われて」(22節)いるのですから、神と交わるための障害はなくなったので、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(22節)ということでしょう。

 

そして23節で、実際の信仰生活においては、「約束してくださったのは信実な方である」ことを根拠にして、「公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ち」(23節)、「互いに愛と善行に励むように」(24節)と励まします。

 

「かの日が近づいている」の「かの日」はキリストの再臨の日のことで、主の再臨が迫っていることを思い起こさせて、「集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。」と、今やるべきことを確認します。

 

●26節.もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。

 

信徒が「故意に罪を犯し」ですから、福音の希望を捨てて離れていく信徒で、おそらく、ユダヤ人キリスト信徒の共同体の中では、(ユダヤ教社会からの迫害とか誘惑で)信仰から離れる者が沢山いたようです。

 

ここ26節から、これらの福音の真理を拒み、信仰から離れる人々に対する警告です。

 

「故意に罪を犯し続ける」とは、キリストの福音を捨てて、罪の中に生き続けることを意味しているのでしょう。

 

キリストを信じながら、なおかつ過ちを犯してしまうことではないと思います。

 

「罪を犯し続ける」と、キリストに対する信仰(希望)が揺らぎ、この世を愛して、他の信者や仲間から離れて、罪を犯しても平気になってしまいますので、その人たちのことを指しているのでしょう。

 

「罪のためのいけにえ」は、キリストの生贄を指すのでしょう。

 

動物のいけにえでは、完全に罪を取り除くことができませんが、唯一、完全に罪を取り除くことができるキリストの生贄をないがしろにするのであれば「もはや残っていません。」ですから、キリストの生贄は、最初で最後のただ一度の生贄で、他に生贄は残されていない、ということでしょう。

 

●27節.ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。

 

「ただ残っているのは」というのは、わたしたちの罪の贖いは終わり、キリストがやがて再臨されることも決まっているのですから、あと残っているのは、ただ審判と終わりの日の患難だけだということでしょう。

 

「審判」は、終わりの日の裁きのことでしょう。

 

「敵対する者たちを焼き尽くす激しい火」とは、キリスト再臨の前に起こるとされている大患難の時に、天から降ってくる火、神の裁きの火のことを指しているのでしょう。

 

●28節.モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。

 

「モーセの律法を破る者・・」ですが、これはモーセ律法を破った者に対する厳しい処罰を引き合いに出して、「故意に罪を犯し続ける」(26節)信徒に対し、申命記32章35節から36節(二、三人の証言に基づいて)を引用して、「情け容赦なく死刑に処せられる」と警告しているのでしょう。

 

●29節.まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。

 

「故意に罪を犯し続ける」とは、キリストの贖罪はただ一度で、完全に成し遂げられたものですから、「まして」その贖罪の場に入れられながら、なお罪を犯し続けるならば、もはや二度目の赦しはありえないということでしょう。

 

そのような罪の行為を「神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する」ことだとし、申命記32章35節から36節(二、三人の証言に基づいて)を引用して、その重大さを強調して警告しているのでしょう。

 

●30節.「復讐はわたしのすること、/わたしが報復する」と言い、また、/「主はその民を裁かれる」と言われた方を、わたしたちは知っています。 

 

キリストの民が信じている神は正義の神で、報復される神です。

 

悪を行なう者を罰しないままで置かれることは決してないのです。

 

そして悪を裁くだけではなく、その悪行に応じて苦しみを与える、すなわち、報復される方なのです。

 

●31節.生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。

 

聖書の神は、生きておられて今も働いておられるのです。

 

もし、それが事実であるならば、その方を拒否することはなんと恐ろしいことでしょうか。

 

著者は、ユダヤ人キリスト教徒に、信仰を捨ててキリストを否むことが、いかに大きな代償を伴うかについて忠告します。

 

●32節.あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。

 

「初めのころのことを、思い出してください。」と著者は、この手紙の読者に呼びかけます。

 

初めのころは「苦しい大きな戦い」(迫害のことでしょう)があったのです。

 

ということは、今は、苦難の中で戦っていないことを意味します。

 

背景としては、おそらく彼らは、御霊の「光に照らされて後」、すなわち、信仰に入った「初めのころ」は、福音の真理についての光が彼らに照らされて、全き信仰と、確かなる希望を抱き、兄弟たちとの愛に熱く燃えていましたので、迫害にも耐えていました。

 

そうしているうちに、迫害に耐えかねてキリスト信仰を捨てて、ユダヤ教に戻る人とか、キリスト信仰を捨ててはいないが、迫害や苦しみを耐えることに疲れて、また人々への恐れから、自分の信仰をはっきりと表に出さないようになるとか、この世と妥協してしまっている人々も多く出てきたのでしょう。

 

そこで著者は、その人たちに「初めの」信仰に熱く燃えたころを思い出すようにと、励まします。

 

●33節.あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。

 

「あざけられ、苦しめられて、見せ物にされ」は、おそらくユダヤ人キリスト教徒に対する、「初めのころ」のユダヤ教徒の迫害のことを言っているのでしょう。

 

●34節.実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。

 

最初の頃、キリストの民は迫害され、財産を奪われましたが、「いつまでも残るもの」すなわち、天における報いを信じていたので、その迫害を喜んで耐え忍んだのです。

 

●35節.だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。

 

●36節.神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。 

 

「自分の確信」は、「苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころ」の確信を指し、その「確信を捨て」ないことが大切だと言っているのでしょう。
その確信は、もちろん、イエス・キリストの福音です。

 

「大きな報い」は、あの時と同じように、これからも約束のものを受けるのには忍耐が必要であることを説いているのでしょう。

 

キリストの民が、天から報いを受けるのは、キリスト再臨の時です。

 

その時には、キリストに結ばれた者は、天に引き上げられ、キリストの裁きの御座にて、冠を受けて、報いを受けるのです。

 

●37節.「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。

 

「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。」は、キリストの再臨への期待を語っているのでしょう。

 

「遅れられることはない」と、わざわざ断っているのは、キリストがなかなか来られないので、不安になる信徒がいたからでしょう。

 

やがてこの問題は、キリストの共同体にとって重大な問題になります。

 

●38節.わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、/その者はわたしの心に適わない。」

 

ここも七十人訳ギリシア語聖書でイザヤ書26章20節、ハバクク書2章3節と4節の引用だということです。

 

ただし、解説によると、同じ個所の引用でも、パウロは、信仰(律法行為に対立する信仰)による義の聖書による証明として引用していますが、著者は、「信仰」が約束への忠実さという意味で引用しているということです。

 

●39節.しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。 

 

ここ39節は、38節の引用した言葉を受けて、「ひるんで(約束を信じ切れないで) 滅びる者ではなく、信仰によって(約束を信じ抜いて)命を確保する者」になろうと呼びかけています。

 

すなわち、わたしたちには二つの選択があるということでしょう。

 

「ひるんで滅びる者に」なるか、信仰によって「命を確保する者」になるかです。

 

教会では、一度信仰を持てば、永遠に救いの恵みは失われないと教えていますが、ここを読めばそうではないように思えます。

 

それとも、救いに与るのには変わりはないが、それ相当の報いを受けるという意味でしょうか。

 

しかし、「滅びる者」を救われない者とすると、命を確保できない者が滅びるのですから、やはり、救いに与れないということになると思うのですが、いかがでしょうか。

 

それとももともと信仰はなかった、信仰は偽物であったということでしょうか。

 

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