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2019年11月 5日 (火)

主による鍛錬(12章)

聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙12章1節から13節です。

 

●1節.こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、

 

「こういうわけで、」というのは「わたしたち(キリストに属する者)を除いては、彼らは完全な状態に達しなかった」(40節)ことを指し、そのわたしたちの生涯を著者は、競走競技にたとえているのでしょう。(1節から3節)。

 

競技で走る者はできるだけ身軽になろうと、すべての重荷を捨てて走ります。

 

そのようにわたしたちも罪の重荷をかなぐり捨て、信仰の創始者であり完成者であるイエスを模範として、忍耐強く最後まで走るように、著者は励ましているのでしょう。

 

「おびただしい証人」とは、11章2節以降に書かれている聖書の「昔の人たち」のことですが、彼らは、信仰によって、キリストの証人となった人々です。

 

彼らは神の言葉に忠実に生きたのですが、自分が生きているうちに神の約束が実現するのを見ることができませんでした。

 

むしろ、苦しみ、虐げ、そしり、窮乏、拷問など、祝福とは正反対のことが彼らの生活にふりかかりました。

 

こうした報われないで死んでいった「証人の群れ」がおびただしい数になっています。

 

キリスト者の歴史は、迫害と殉教の歴史です。

 

●2節.信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。

 

 

この手紙の読者は、ユダヤ人共同体の中で、疎外され、迫害を受けていました。

 

それがため、彼らは疲れはて、その迫害が重荷となり、罪を犯していました。

 

彼らは、そのことを自覚していたのでしょう。

 

そこで、著者は「信仰によって」生きた「昔の人たち」のことを思い起こさせようとしたのでしょう。

 

彼らは苦しみに遭ったが、わたしたちのように、約束のキリストが与えられなかったのだ。それでも、キリストを待ち望んで、生きるようにして死んでいったのだ。

 

だから、そのような先人を思い、元気を出しなさい、と励ましているのでしょう。

 

そこで著者は、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(2節)、「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、」(1節)と励ましています。

 

また著者は、イエスは「御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、・・」とイエスの身に起こった出来事を語ります。

 

それは、「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように」なるためであったとします。

 

イエスは、罪人とともに数えられて、十字架につけられました。

 

ローマ兵からは、着ている者をはぎ取られ、葦の棒で頭をたたかれ、唾を吐きかけられ、嘲笑されました(マタイの福音書27章27節から31節を参照)。

 

ユダヤ人は、「神の御子なら、自分を救ってみろ」(同40節)と言ってイエスを罵りました。

 

●3節.あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

 

著者は、彼らが「気力を失い疲れ果ててしまわないように」、「このような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」と諭すように語り掛けます。

 

●4節.あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。

 

ここ4節から11節まで、信仰の生涯で遭遇する様々な苦難は、主から与えられる鍛錬として忍耐するように、励ましの言葉が続きます。

 

そして、この4節では、あなたがたはまだ、迫害によって「罪と戦って血を流すまで抵抗したことが」ないと指摘しています。

 

●5節.また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、/力を落としてはいけない。

 

●6節.なぜなら、主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」

 

著者はこの5節と6節で、聖書(箴言3章11節から12節)を引用して、神はわたしたちを御自分の子として受け入れるために、子を鍛錬する父親のように「鞭打たれる」(鍛錬)のだと説いています。

 

「主は愛する者を鍛え」とありますように、主はわたしたちを愛するゆえに、わたしたちを鞭打たれるのであって、もしわたしたちが懲らしめられないのであれば、それは愛されていない証拠なのです。

 

自分が訓練を受けて、懲らしめられるのは、御父の深い愛の現われなのです。

 

●7節.あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。

 

●8節.もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。

 

父が子をしつけるのと同じように、あなたたちが遭遇している苦難は、神があなたたちを子として鍛錬されているのだから、忍耐しなさいと説きます。

 

さらに、ここ8節では、「もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば」、それは実の子(キリストを信じているように装っている信徒のことでしょう)ではないと言っています。

 

そうであれば、鍛錬と言うほどのこともなく、恵まれて生きる我々などはどうなるのだろう。

 

●9節.更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。

 

厳しく肉の父(自分生んだ親)にしつけられた子は、誰でもとは言いませんが、父のことを尊敬します。

 

なおさらのこと、霊の父である神に鍛えられたわたしたちは、父なる神に対して、尊敬し、服従するのは当たり前です。

 

●10節.肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。

 

霊の父である神と肉の父では、同じ鍛えるのにも目的が違います。

 

「肉の父はしばらくの間」ですから、この地上に生きている間、それも子供のころの間だけです。

 

霊の父は、「わたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的」で、鍛えられます。

 

「神聖」ですから、罪から離れさせて聖め、神と共に永遠に生きるようにされるのです。

 

●11節.およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

 

ここでは、鍛錬の結果としての成熟を語っているのです。

 

神は、目の前の問題を即席で解決するよりも、じっくりと時間をかけて、わたしたちを問題に取り組ませて、それを耐え忍ぶことによって、良い実が結ばれるようにする方法をとられているのです。

 

その過程は、「喜ばしいものではなく、悲しいものと思われ」ても、後になって、あなたたちに「義という平和に満ちた実を結ばせる」ことによって、あなたたちはにそのことがわかるのです。

 

人間の人格形成には時間がかかるのと同じように、霊的形成にも時間がかかるのですね。

 

何事も、楽をして成果は得られないのが、この世の摂理でしょう。

 

しかし、三つ子の魂百までとあるように、若いうちに神に出会っていることが望ましいのでしょう。

 

●12節.だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。

 

●13節.また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

 

「萎えた手と弱くなったひざ」とか「足の不自由な人」というのは、信徒たちが霊的に、信仰的に弱っている様を表しているのでしょう。

 

著者は、「ひざをまっすぐにしなさい。」とか、「踏み外すことなく」という言葉で忠告して、地上の生涯を、つまり、神が備えてくださった栄光の都に入るための旅路を全うするように励まします。

 

そして、「むしろいやされるように、」とあるのは、御霊に満たされて、癒されて、元気づけられて(周りに惑わされることなく)、「自分の足でまっすぐ信仰の道を歩みなさい」ということでしょう。

 

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