信仰(1)(11章)
聖書の箇所は、ヘブライの信徒への手紙11章1節から40節です。
二回に分けまして、(1)は1節から19節までとします。
●1節.信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
この11章では、信仰の先人たちの事例を列挙していますが、その前に「信仰」とは何かを説明しています。
「望んでいる事柄」と「見えない事実」(共に複数形)は、両方とも神によって約束された終わりの日の栄光の事態を指しているのでしょう。
キリストの再臨の際に受けるキリストの民の報いのことを言っているのでしょう。
「確信」という言葉の原意は「根底にあって支えるもの」で、それは「確信、確証」という意味にも用いられているそうです。
したがって、この「確信」というのは、約束を裏付けするものですから、保証するということでしょう。
「見えない事実を確認」の確認は、確認、確証、非難などの意味で用いられていて、ここでは「検分済み確認書」という意味だそうです。
神から与えられる内的な確信で、神が約束されたことを必ず実行されるという「確信」ということでしょう。
どちらにしても、両者は同じような意味で、望んでいる事柄を確固たるものにするという意味があるのでしょう。
したがって、著者が言う信仰とは、神の約束によって終わりの時に与えられると望んでいる栄光、まだ見ていない終末的な栄光の事態を確かな現実として、現在を生きる生き方ということになると思います。
これは、パウロが希望と呼んだ信仰者の生き方と同じであると思います。
すなわち、パウロも著者も信仰と希望は一体なのです。
それが、初期のキリストの民の「信仰」の本質でもあったのでしょう.
神の御心に反する事態が生じて、大きな苦難の中にいるときにも、神が聖書を通じて約束して下さっていることは、必ず成就すると信じていたのです。
それは「見えない事実」であっても、今この時にも神による希望は確かにあると信じる、そのような信仰を力強く告白しているのでしょう。
もちろん、確信とか確認が得られるのも、あくまで恩恵の賜物ですから、神の御霊、聖霊の働きによるのです。決して人間の努力とか能力によるのではないのです。
●2節.昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
旧約聖書の中の「昔の人々」で、称賛に値する人々、あかしを残している人々を列挙して、彼らがいかに信仰によって生きていたのかを確認します。
●3節.信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
「昔の人たちは、この信仰によって神に認められました」(2節)と言って、4節から著者は聖書に名を連ねている先人たちの実例を列挙します。
ここ3節は、アベル以下の先人たちの実例をあげる前に、前置きとして、聖書の最初の創世記にある創造信仰も見えないものを現実とする「信仰」の働きであるとしています。
したがって、創世記の記述を科学的に論証したり、論理的な帰結を求めたりするものではないのです。
神がそのように言われたから、その様に信じているのです。
●4節.信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
著者は、38節まで、聖書に名を連ねている先人たちの実例を列挙します。
アベルから始まり、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、モーセ、ヨシュア、娼婦ラハブ(異教徒)をあげて、目に見えないものを信じる「信仰によって」歩んだ先人たちの実例としています。
その中でも、アブラハムの生涯が、信仰に生きる者としてのあり方の中心になっています。
預言者とかそのほかの勇者は、省略したのでしょう。
著者もパウロと同じように本国は天にあるとし、「天の故郷を熱望して」、地上では旅人として生きる者であることを強調しています。
アベルの話は、創世記4章です。
物語に出るカインは兄、アベルは弟です。
弟アベルが子羊の生贄を献げて、兄カインが土地の作物を献げましたが、神は弟アベルの生贄を受け入れらました。
聖書にはなぜ神は弟アベルの献げ物を受け入れられたのかは書いていません。
それは、弟アベルは信仰によって献げた、ということでしょう。
兄カインのささげものは、単なる祭儀であったのでしょう。
●5節.信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。
エノクは創世記5章に出てきます。
聖書ではほかの人は死んだと書いてあるのに、「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(24節)」となっています。
エノクは生きたまま、天に移されたのです。
その理由が、神とともに歩んでいたことであり、また神に喜ばれていたことであります。
●6節.信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。
エノクが生きていた時代は、ノアの時代と同じように、人々が悪いことばかりに傾き、良いものがない状態でした。
その中で、彼は「神が存在しておられる」ことを信じ、その神は、報いてくださる神であることを信じ求めていたのです。
●7節.信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。
エノクの次は、創世記6章から10章のノアです。
ノアの時代は、「堕落し、不法に満ちていた」時代でした。
ノアは「まだ見ていない事柄」、すなわち、神から、「神はノアに言われた。「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。」(6章13節)、「あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。
箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。」(6章14節)と命じられました。
ノアはそのときに、洪水が起こるような兆しがなかった(まだ見ていない事柄)にも関わらず、神の言葉を信じて箱舟を造りました。
そして洪水が起こりましたが、ノアとその家族は箱舟の中にはいり救われました。
ノアは、「まだ目で見ていない事柄」を必ず起こるものとして、信じたから救われたのです。
●8節.信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。
さて、信仰の父祖アブラハムです。
創世記12章から25章です。
アブラハムは生まれ故郷であるカルデアのウルから、神が示されたことを信じて出て行きました。
神の言葉を信じて「服従し、行き先も知らず」に出発したのです。
従順が伴う信仰です。
「行く先も知らず」ですから、ただ神の言葉のみを信じて生まれ故郷を出発したのです。
●9節.信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。
神はアブラハムに「わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる」と言って示された土地は「他国」で、先住民カナン人が住んでいるところでした。
神にこの土地を与えると約束されたので、信じてはるばるやってきたのに、アブラハムはそのカナンの土地に入っても「幕屋」(テント)生活を行なっていました。
子供である「イサク、ヤコブ」も同じように幕屋に住みました。
●10節.アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。
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アブラハムがカナン人の土地において、他国人のように仮住まいである幕屋生活をしていたのは、「神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望」していたからでした。
アブラハムは、このように地上のものではなく、天に対する望みが、彼の天幕生活を支えていたのです。
●11節.信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。
アブラハムの妻サラは不妊で「年齢が盛りを過ぎていた」のです。
しかし、彼らは「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む」と言われた神の約束の言葉を信じて、サラは妊娠し、イサクを産みます。
不可能なことも可能にされる神を信じる信仰ですね。
●12節.それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。
アブラハムとサラは、約束の実現を自分たちが生きている間には見ることはありませんでしたが、「空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれた」のです。
●13節.この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。
アブラハムとサラ、また子供であるイサクとヤコブも「信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れません」でした。
彼らは、その約束を手に入れるためには、この地上で旅人であり、「仮住まいの者」でなければいけないことを知っていたのに、それでも約束を手に入れたいために、仮住まいの者でありつづけたのです。
アブラハムは「はるかにそれを見て喜びの声をあげ」、すなわち、約束をはるか先に見てですから、すでに実現したかのように喜び、神を賛美していました。
そして、自分たちがこの地上では、「よそ者であり、仮住まいの者」であることを公言していたのです。
●14節.このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。
●15節.もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。
●16節.ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。
彼らは、カナン人の地において、自分たちは旅人であると公言していましたが、その旅人の意味は、父の故郷であるウルに帰ることを求めているのではなく、「戻るのに良い機会」(15節)もあったのですが、「更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望」(16節)していたからなのです。
それゆえ、「神は彼らの神と呼ばれることを恥と」(16節)せず、「神は、彼らのために都を準備」(16節)しておられました。
●17節.信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。
「信仰によって、・・試練」ですが、アブラハムとサラは、あなたの子孫によって祝福されるという神の約束を受け取っていましたが、サラには子を宿す気配はなく、二人とも年老いていました。
途中でサラは、女奴隷ハガルをアブラハムに与えて、ハガルに子を産むようにさせ、生まれた子の名をイシュマエルと名付けました。
アブラハムとサラから約束の子供イサクが生まれるのは、アブラハムが約束の地カナンに向かってから実に25年後で、アブラハムが百歳のときでした。
ところがイサクがおそらく20歳弱ぐらいのころ、神はアブラハムの信仰を試すために「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを、・・焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」と命じられました。
祝福と息子の犠牲という相矛盾する神の命令をアブラハムは、信仰によって「独り子を献げようと」しました。
●18節.もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。
●19節.アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
アブラハムは「神が人を死者の中から生き返らせることもおできになる」と信じたのです。
なぜならば、神はイサクによって子孫がふえると約束されていたからです。
そのイサクを「焼き尽くす献げものとしてささげなさい。」(創世記22章2節)と「人を死者の中から生き返らせる」神が言われるのですから、献げたイサクが生き返ることによって、約束が実現すると信じたのです。
イサクは実際のところ死ななくて済んだのですが、アブラハムにとっては、イサクを殺し、神に献げようとしたのですから、イサクが生き返ったのと同じです。
このアブラハムの物語が、「キリストの証し」になるのです。
父なる神が、ご自分の愛するひとり子キリストを、十字架につけ生贄としてほふられた出来事と同じことを、アブラハムが前もってイサクを通して行なったということです。
神がキリストによって行なわれる罪の贖いを、アブラハムは自分自身の信仰生活の中で見事に証したのです。
といっても、アブラハムがイサクを献げるときには、まさか将来のキリストの十字架の出来事を思って献げたのではないと思います。
キリストの出来事が起こって初めてそのことが分かったのです。
けれども、結果的に人々に証するものを残したのは確かです。
それが、神の御計画であり、彼の信仰のゆえです。これを予型というのですね。
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