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2019年11月 3日 (日)

信仰(2)(11章)

聖書の箇所は、ヘブライの信徒への手紙11章1節から40節の(2)は20節から40節です。

 

●20節.信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。

 

●21節.信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。

 

●22節.信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。

 

20節から22節は、創世記のアブラハムの物語で、子孫であるイサクとヤコブとヨセフの信仰の証のことを言っているのでしょう。詳細は省略します。

 

イサクは、目が不自由な故、間違って弟ヤコブに祝福を与えたので、兄エサウには「もう祝福は残されていない」と言って、エサウの子孫がこれからどうなるのか、その未来を預言しました。

 

イサクはエサウを祝福したかったのですが、信仰により自分の気持ちよりも神の言葉を優先し、神から与えられた啓示を語りました。

 

ヤコブは、彼は死ぬ間際にヨセフの息子二人を祝福し、また12人の息子に、終わりの日に起こることを預言しました。

 

彼は、杖によりかかって神を礼拝するほど体は弱っていたのですが、信仰により息子を祝福し、神を礼拝したのです。

 

ヨセフは、自分の死期が近づいたとき、遺体をエジプトから連れ出してカナンの地に葬ることを指図しました。

 

それは、彼は神を愛し、神が与えてくださったその土地に行きたいと強く願ったからでしょう。

 

カナンの地を与えるという神の約束は、自分が生きているうちに実現しないのですが、けれども、必ず実現すると信じていたからそのような行動をとったのでしょう。

 

●23節.信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。

 

 

モーセが生まれた時に、両親には信仰が与えられていました。

 

エジプト王ファラオは、「生まれた男の子は、一人残らずナイル川に放り込め。女の子は皆、生かしておけ」と命じたのですが、助産婦は信仰によりモーセを生かし、両親はモーセを生かすために、ナイル河畔の葦の茂みの間にモーセを隠しました。

 

そこでなんと驚くべきことが起こったのです。そう、神の計らいと言えるでしょう。

 

そのモーセをエジプト王の王女が拾い上げて自分の子供として育てたのです。

 

このようにしてモーセは、神を恐れる信仰者の手により守られたのです。

 

●24節.信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、

 

●25節.はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、

 

成人したモーセは、エジプト王パロの娘の子で、富も名誉も得て何不自由のない生活をしていました。また、「ファラオの王女の子」と呼ばれていました。

 

それなのに、自分が神の民ヘブライ人であるゆえにそれらを拒み、虐待される方を選んだのです。

 

●26節.キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。

 

モーセは、エジプトの富と、将来与えられる神の約束としての報いを、天秤にかけたのでしょう。

 

エジプトの富は、自分が生きている間で、数十年間のみのことです。

 

しかし、キリストのゆえに受ける嘲りによって与えられる報いは永遠です。

 

モーセはキリストを選んだのです。

 

それは、キリストのゆえに受ける嘲りをエジプトの財宝より勝る富と考えたからです。

 

モーセは平穏な日々より、召命に応え、荒野に出ていくことを選んだのです。

 

●27節.信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。

 

この箇所は、イスラエルの民と共にモーセがエジプトを出て行ったときの話しでしょう。

 

エジプトを逃れるイスラエルの民の数は、大変な数であったでしょう。

 

エジプト王に知れると殺されてしまいます。隠れてするのですから、旅支度に時間もかかったでしょう。

 

「モーセは王の怒りを恐れ」ないで、旅路の仕度を整えたに違いありません。

 

その勇気と労力は「目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたから」できたということでしょう。

 

見えない方、つまり神をひたすら見るようにして、恐ろしさに耐え忍んだのです。

 

●28節.信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。

 

神はエジプトに「滅ぼす者」を送られ、エジプトは裁かれるのです。

 

神は、「その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である。」(シュツエジプト12章12節)と言われ、同時に神はモーセに、その裁きから免れるための方法を教えられました。

 

それは、過越しの子羊をほふって、その血を門柱と鴨居につけて、子羊は火で焼いて食べるという方法でした。

 

このことでどのような効果があるかわからない不思議な命令です。

 

けれどもモーセは信仰をもって、それを行うようにイスラエルの民に指示しました。

 

この出来事は、後に、キリストが十字架上で過越しの子羊として死なれ、続く者もバプテスマを受けることによって救われると理解する予型となったということです。

 

しかし、この時のモーセにはそのようなことは想像もできないことであったでしょう。

 

●29節.信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。
エジプトを脱出したモーセたちは、最初の難関である紅海を渡ります。

 

神は紅海を分け、陸地をつくり、そこをモーセたちは歩いて渡りました。

 

これは、もちろん、神の力を信じる信仰のゆえにできたことです。

 

追ってであるエジプトの兵士も、イスラエル人と同じようにして,紅海の水を分けられてできた陸地をわたろうとしましたが、分けられた水は元に戻り、おぼれて死にました。

 

●30節.信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。

 

ここはモーセの次のリーダーである、ヨシュアの話です。

 

エリコを陥落させるときに、神が言われたから彼らは七日間、城の周りを回るという、何の意味もないような、馬鹿げたような事を行いました。

 

けれども、彼らは神がそのように言われたから信仰によりそのようにしたのです。

 

七回回ったところで、城壁はなぜか崩れ落ちました。

 

●31節.信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。

 

エリコの娼婦ラハブの信仰が書かれています。

 

ここは、彼女の行ないに関わらず、その信仰によって救われたと言っています。

 

娼婦ラハブは、イスラエルの神を信じていたので、エリコを偵察にきていたイスラエル人のスパイをかくまいました。

 

そのために、同じエリコの住民がことごとくイスラエルに滅ぼされたのに、ラハブの家族だけが救われました。

 

●32節.これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。

 

著者は「これ以上、何を話そう」と言って、旧約の勇者たちを大雑把にまとめています。

 

「ギデオン、バラク、サムソン、エフタ」はみな士師で、ダビデはもちろん王です。

 

最後のサムエルは、士師でありかつ預言者です。

 

「預言者たち・・時間が足りない」と言っているのは、預言者は、エリヤ、エリシャ、イザヤほか多くに人物がいたからでしょう。

 

●33節.信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、

 

●34節.燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。

 

33節・34節も、聖書の物語の勇者の偉大な働きは、すべて信仰によってなされたものであることを説明しています。

 

●35節.女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。

 

●36節.また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。

 

●37節.彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、

 

●38節.荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。

 

35節から38節は、マカベヤ時代の苦難を念頭において記事が書かれているのでしょう。

 

この手紙の読者の父や祖父の時代に起こった迫害の出来事でした。

 

マカベヤ(ハスモン家の指導のもとに戦われたのでこの名がついた)時代に、シリア王アンテイオコス3世は神殿にゼウス像を建ててユダヤ人に拝むように強制し、従わない者は処刑しました。

 

彼は聖書を燃やし、割礼を禁止し、幼児に割礼を施した母親を子もろとも殺し、幼児の死体を母親の首にかけてさらしました。

 

このユダヤ人の戦いは、前166年~前142年の24年に及ぶパレスチナのユダヤ人が起こしたシリアの支配に対する戦いで、マカベウス戦争、マカバイ戦争と言われています。

 

迫害の中で、ダニエルは神に「あなたは何故、このような暴虐の振舞いを許されるのか、何時までこのような苦しみは続くのか」と訴えました。

 

そのダニエルの問いの答えを神は幻で示されました。

 

その幻によって、勝ち誇るアンテイオコスはやがて滅びると啓示されます。

 

それでは、「更にまさったよみがえり」(35節)とはどういうことでしょうか。

 

預言者エリヤも、またエリシャも、死んだ女たちの身内の子どもを「生き返らせ」、すなわち、蘇生させました。

 

ですから、死者の復活のことを言っているのでしょう。

 

蘇生ですから、キリストの死者からの復活とは違って、息を吹き返してもその後死んでしまいます。

 

キリストは、わたしたちが今持っている肉体とは違う、別の体を持って復活されたのです。

 

その体は、朽ちない体であり、永遠に残るものです。

 

この当時の人はキリストのことは知らなかったでしょうが、迫害の中で、復活信仰がすでに信じられていたのです。

 

●39節.ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。

 

●40節.神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。

 

ここまで上げてきた聖書に記録された信仰の勇士たちの実例を列挙した後、「この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。」(39節)とします。

 

それは、40節で「神は、わたしたち(キリストに属する民)のために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しない」からだということでしょう。

 

すなわち、彼らが「約束されたものを手に入れ」なかったのは、キリストにおいてそれら約束されたものが実現するためであったからだということでしょう。

 

その約束のものは、「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画」のためですから、著者にとってそれは、キリストの福音を信じる者にもたらされた聖霊による終末の現実(永遠の命)を指しているのでしょう。

 

そこで著者は、「わたしたちを除いては、・・完全な状態に達しなかった」(39節)ですから、そのわたしたちキリストに属する民が信仰に生き抜いて、神の終末的栄光に達するようにならなければ、 彼らの苦難に満ちた信仰の生涯はその意義を全うされない、ということでしょう。

 

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