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2019年10月26日 (土)

メルキゼデクの祭司職(7章)

聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙7章1節から28節です。

 

メルキゼデクという名は、旧約聖書の中の創世記14章18節と、詩編110編4節の二か所に出てくるだけです。

 

著者は、そこで語られている僅かのことをもとに、語られていない多くのことを加えて、イエスが「メルキゼデクの位の大祭司」であるということの意味を、7章全体で説いています。

 

●1節.このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。

 

メルキデゼクは、創世記の初めに現れる人物です。

 

アブラハムとの出会いの流れを書いてみると、アブラハムは甥のロトと一緒に、神に示された土地カナンに移り住みました。

 

アブラハムもロトも放牧者で、羊や牛を飼っていましたが、羊や牛が増えて土地が狭くなってしまいました。

 

そのために二人が雇っている牧者たちの間でいざこざが起こるようになりました。

 

そこでアブラハムはロトに別れを告げるのです。

 

アブラハムはロトに「別れて住もう。あなたが右に行くなら、私は左に行き、あなたが左なら私は右に。」と言いました。

 

そして、ロトは、ヨルダンの低地全体を見下ろして、とてもよく潤っていたのを見て、そこを選びました。恵まれた土地を選んだのです。
けれども、そこにはソドムという町があり、神を恐れて生きる者には適さないところでしたが、ロトはソドムの近くに天幕をはって、住み始めました。

 

 

しばらくして、ロトはソドムの中に住み始めました。

 

まもなく王たちの間で戦争が起こりました。

 

ソドムにも敵がやって来て、そこにいる人々や財産を奪い取っていきました。

 

その時にロトも財産を奪い取られたのです。

 

アブラハムは、甥を愛するゆえに、その敵を追跡して打ち破りました。

 

そして無事に、ロトとその財産、またロトの家の人々を取り戻すことができました。

 

●2節.アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。

 

●3節.彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。

 

そこで、メルキデゼクの登場です。

 

まず、聖書のメルキゼデクが登場する唯一の箇所である創世記14章17から24節を用いて、1節から3節で彼の人物像を説明しています。

 

2節では、その名前の意味を説明していますから、読者がヘブライ語を知らない人たちなのでしょう。

 

しかし、名前の意味のほかには、帰ってきたアブラハムを出迎えて祝福したことと、3節で、「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。」と書いています。

 

「生涯の初めもなく、命の終わりもなく」とはどういうことでしょうか。

 

戸籍制度も整っていない当時のことですから、その様な人物は多くいたのでしょう。

 

「命の終わりもなく」というのは、よく分かりませんが、(長寿で健康であり、死んだ姿を誰も知らなかったので)その様に言い伝えられていたのでしょうか。

 

なぜ著者がこのようなメルキデゼクの生涯を取り上げてここに書いたかですが、解説によると、それは、永遠の神の子であるイエスの予型として、そういうことが何も書かれていないメルキゼデクの物語を用いているのではないかということです。

 

どちらにしても、著者がここで言いたいことは、イエスが「永遠に祭司である」ということでしょう。

 

●4節.この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。

 

「どんなに偉大であったか」という問いかけは、メルキデゼク、ひいてはイエス・キリストがいかにすぐれた方であるのか、そのことをよく考えなさい、ということでしょう。

 

その根拠を、イスラエルの父祖である、あなた方があがめるアブラハムが、彼に最良の戦利品の十分の一を与えたということです。
そう、イスラエルの父であり、族長である、あの偉大なアブラハムが最良の戦利品の十分の一をメルキゼデクに献げたのです(民数記18章21節から29節参照)。

 

●5節.ところで、レビの子らの中で祭司の職を受ける者は、同じアブラハムの子孫であるにもかかわらず、彼らの兄弟である民から十分の一を取るように、律法によって命じられています。

 

●6節.それなのに、レビ族の血統以外の者が、アブラハムから十分の一を受け取って、約束を受けている者を祝福したのです。

 

兄弟である民から十分の一を受け取るように律法で命じられているのはレビ人であり、とくにアロンの系図にいる祭司たちでありました。

 

けれども、メルキデゼクは、アロンの系図の者ではないにも関わらず十分の一を、それもアブラハムから受けとっています。

 

それは、アブラハムが「約束を受けている者」だからです。

 

メルキデゼクが、いかに偉大であったかを、強調しているのでしょう。

 

●7節.さて、下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです。

 

誰かが誰かを祝福するということは、祝福する者が上の者で、祝福される者は下の者です。

 

つまり、メルキデゼクは、偉大な父アブラハムよりも、さらにすぐれた方だと言いたいのでしょう。 

 

ということは、レビの血統でないメルキゼデクは、レビ系の祭司たちよりも偉大な祭司であることになります。

 

●8節.更に、一方では、死ぬはずの人間が十分の一を受けているのですが、他方では、生きている者と証しされている者が、それを受けているのです。

 

「死ぬはずの人間」とは、アロンとその子孫のことでしょうか。

 

そうすると、「生きている者」はメルキデゼクとその子孫で、メルキデゼクとその子孫は死なないで生きていると証されていることになります。

 

●9節.そこで、言ってみれば、十分の一を受けるはずのレビですら、アブラハムを通して十分の一を納めたことになります。
アブラハムの子孫にレビが生まれ、レビの子孫が祭司となりました。

 

ということは、アブラハムがメルキゼデクに十分の一をささげたとき、それはアロンの子孫も含むすべてのイスラエル人が、彼に十分の一を納めた、ということになります。

 

メルキゼデクとアブラハムの生きていた時代には、レビ族はまだ誕生していなかったから当然です。

 

つまり、アロンの祭司職と、メルキゼデクの祭司職は比べられるようなものではなく、後者がはるかに、まさっているのです。

 

●10節.なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだこの父の腰の中にいたからです。

 

メルキゼデクがレビ系の祭司より優れているのは、アブラハムがメルキゼデクに戦利品の十分の一を献げた事実(4節から10節)と、レビ人は、イスラエルの祭司職の担い手として律法で他の部族から十分の一を受けるように定められていました(民数記18章21節以下)が、そのレビ人はアブラハムがメルキゼデクに十分の一を献げたとき「まだこの父の腰の中にいた」(子孫として含まれていた)ので、レビ人でなくメルキゼデクに献げたということでしょう

 

●11節.ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、――というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですから――いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう。

 

祭司職は、民を代表して捧げものをして、神から罪の赦しをいただく務めです。

 

これによって、人々が神に受け入れられた者となり、神に近づくことができ、神のいのちと恵みを受け取ることができます。

 

そしてレビ系の祭司職がこの務めを完全に果たすことができていたなら、他の祭司を必要としません。

 

それにもかかわらず詩篇110篇において、メルキゼデクの位に等しい祭司が立てられたのです。

 

ということは、レビ系の祭司職は不完全であり、罪の贖いを達成できていない、ということになります。

 

●12節.祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。

 

アロン(モーセの兄)の祭司職を基にして、モーセの律法は成り立っています。

 

その祭司職が、メルキゼデクによって取って代えられます。

 

そうであれば、律法そのものも「必ず変更が」あるはずだということでしょう。

 

●13節.このように言われている方は、だれも祭壇の奉仕に携わったことのない他の部族に属しておられます。

 

●14節.というのは、わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかですが、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです。

 

●15節.このことは、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられたことによって、ますます明らかです。

 

著者は、大祭司アロン(モーセの兄)に代表されるレビ系祭司制が民をモーセ律法で治めることができなかったので、アロンの位の大祭司にとって代わって、まったく別の祭司制としてメルキゼデクの位に等しい大祭司が立てられなければならなかったと言っています(11節から19節)。

 

律法は祭司による執行によって民に与えられているものですから、祭司制が変われば律法もそれと一体なるものとして変わることになります。

 

よって、大祭司アロンに代表されるレビ系祭司制に依存するモーセ律法は、神の子イエスがメルキゼデクの位に等しい大祭司として立てられたとき、廃止されたことになるということです。

 

イエスは明らかにレビ族ではなくユダ族の出身ですから、レビ系の祭司とは別の大祭司です。

 

ユダ族からダビデが出てきて、ダビデの子孫がイエス・キリストだからです。

 

ユダに対して父ヤコブが、「王笏はユダから離れず/統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。」(創世記49章10節)」と言いました。

 

ユダ族には王が出てくることが約束されています。

 

けれどもモーセは、この部族については祭司について何も話しませんでした。

 

●16節.この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。

 

「この祭司」はもちろんイエス・キリストのことで、イエスが「肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって」メルキゼデクの位に等しい大祭司として立てられたことが、詩編110編4節を用いて確認されています。新共同訳とはずいぶん違いますね。

 

「命の力」というのはそれまでとは全く違うとらえ方です。神の御霊、聖霊のことを言っているのでしょう。

 

しかし、レビ系の祭司制が確立していたイスラエルの時代に、このような非レビ系祭司の出現が預言されていたことはすごいです。

 

それも御霊の力の働きにより立てられることが預言されていたとは・・やはり本物です。このようなことは、預言以外の何者でもありません。

 

●17節.なぜなら、/「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」と証しされているからです。

 

前節に続いて、イエス・キリストこそ永遠にメルキゼデクの位に等しい祭司だと聖書に預言によって証されていると言っています。

 

アロンの祭司と、メルキゼデクの祭司との決定的な違いは、前者が肉についての戒めであるのに対して、後者は「朽ちることのない命の力」(16節)によって立てられたということです。

 

すなわち、律法は肉に属するもので地上に属するものです。

 

命の力は、霊に属するもので天からのものです。

 

●18節.その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。――

 

「以前の掟」はモーセ律法のことで、モーセ律法は、「弱くて無益なために」廃止されたことを宣言しています。

 

「キリストは律法の終わりとなられた」のです。

 

パウロも律法の終わりを宣言しました。

 

パウロはモーセ律法を絶対化しているユダヤ人に向かって命がけで闘っています。

 

パウロが苦労した、モーセ律法の成就としての廃止も、著者の時代の異邦人宣教においては既成の事実となっていたと思います。

 

●19節.律法が何一つ完全なものにしなかったからです――しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。

 

律法は、行いを戒めるものです。

 

何々をしなさいとは言いますが、その命令を守るための力は与えられませんでした。

 

人間の努力に任せられたのです。

 

だから「律法が何一つ完全なものに」ならなかったのです。

 

律法(行いは)は、成就できて完全なのです。

 

けれども、神が、キリストを人間と同じ姿にさせて、その肉において、罪を贖い、希望をもたせてくださいました。

 

それは、アロンの祭司職よりもさらにすぐれた希望で、それはキリストのうちに(聖霊のこと)あるのです。

 

この希望によって、すなわち、聖霊の働きによって、わたしたちは神に近づくことが出来るのです。

 

●20節.また、これは誓いによらないで行われたのではありません。レビの系統の祭司たちは、誓いによらないで祭司になっているのですが
●21節.この方は、誓いによって祭司となられたのです。神はこの方に対してこう言われました。「主はこう誓われ、/その御心を変えられることはない。『あなたこそ、永遠に祭司である。』」

 

●22節.このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。

 

「誓いによらないで」というのは、メルキゼデクの位に等しい大祭司イエスは、(詩編110編4節を引用して)神の誓いによって祭司となったので(変更は不可能)ですが、「レビの系統の祭司」は誓いによらないで祭司になっている(ですから、後で変更は可能ということ)のです。

 

だから、「イエスはいっそう優れた契約の保証」になるのです。

 

●23節.また、レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがあるので、務めをいつまでも続けることができず、多くの人たちが祭司に任命されました。

 

●24節.しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。

 

「レビの系統の祭司」、すなわち、アロンは死に、その息子エリエゼルも死に、モーセも死に、祭司は人間ですから死にます。

 

だから「多くの人たちが祭司に任命」される必要がありました。

 

けれども、復活者「イエスは永遠に生きている」(霊として)ので、ただ一人で変わることなく祭司の務めを果たされる大祭司であるとします。
●25節.それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。

 

イエスは、神の右の座に座り、わたしたちを執り成しておられます。

 

ここで気になるのは「完全に救う」という言葉です。

 

この「完全に」というのはどういう意味でしょうか?

 

どんなに最悪な状況の中にいたとしても、どれだけ罪深い、どれだけ汚れたことをしていても完全に救い出すということでしょう。

 

それは「永遠に、後戻りしないように救う」ということでしょう。

 

●26節.このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。
イエスは、聖で罪を犯さず、汚れのない方です。

 

それが「罪人から離され」ている状態です。

 

「もろもろの天よりも高くされている大祭司」というのは、あらゆる霊的存在よりも高くされて、すべてものに対して第一となられた方ということでしょう。

 

●27節.この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。

 

レビ系の祭司は肉の人間ですから、罪を犯すと生贄を捧げて神から罪を赦していただきました。

 

したがって、毎年神殿祭儀があり、生贄を捧げていました。

 

ところが、イエスの場合は「ただ一度」すべての罪のために死なれて、罪を完全に取り除き、永遠の罪の赦しをお与えになったので、もう繰り返して、十字架につけられる必要はないのです。

 

救いは完成したのです。

 

わたしたちが、過去に犯した罪も、現在犯している罪も、そして将来犯すであろう罪も、すべての罪が根こそぎ、永遠に取り除かれたのです。

 

一切合財、キリストが十字架の上で罪の問題を終わりにしてしまったのです。

 

こうして、もうすでに完全に(永遠に)わたしたちの罪は赦されているから、あとは父なる神との親密な交わりを、キリストにあって保っていくだけでよいのです。

 

その交わりが、祈ることであり、聖書を読むことであり、伝道をすることなのでしょう。

 

●28節.律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。

 

26節から28節で、今まで書いてきたことをまとめて、大祭司としてのイエス・キリストを賛美して終わります。

 

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