一人前のキリスト者の生活(5章)
聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙5章11節から14節、6章1節から12節です。
●11節.このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。
「このこと」というのは、5章9節と10節のイエス・キリストのことで、そのことで話すべきことがたくさんあるが「あなたがたの耳が鈍くなっているので」、今はそれができないと言っています。
「耳が鈍くなっている」と言うのは、キリスト信仰を惑わす教えが入ってきて、聞く人々の耳が鈍くなっているということでしょう。
慎重に説明しなければ、また誤った方向に受け取られかねません。
この手紙のユダヤ人キリストの民は相当重症です。
●12節.実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。
聖書では、神の言葉を乳飲み子が乳を欲しがるのをたとえに語られています。
ペトロの手紙一2章2節に「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」という箇所があります。
そのような状態にあるのは、(教師となっているはずなのに)「教師になっていない」ことが理由としてあげられます。
この「教師」とは、別に聖書教師という役職などではなく、福音を他の人に伝えることができる人という意味でしょう。
そして、「再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、」と書いていますから、キリストの福音の基本的な教えが、まだ身についていないということですね。
●13節.乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。
●14節.固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。
ここは、著者がこれから語ろうとする「固い食物」ですから、高度なキリストの奥義を理解することができないのではないかと心配してこのように言っているのでしょう。
その高度なキリストの奥義を「固い食物」に喩えて、その堅い物を消化することができない「乳飲み子」の比喩を用いて語っているのでしょう。
「固い食物」というのは、パウロの言葉に「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。」(コリントの信徒への手紙一3章1節)とありますから、霊的なことでしょうね。
14節で、「固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。」としています。
霊的に養われると、「経験によって良い物と悪い物を見分ける感覚」が訓練されるのです。
●6章1節-2節.だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。
●3節.神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。
著者は、心配な人たちに対して、「キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。」と励ましています。
「キリストの初歩の言葉」の内容が6章1節から2節の「死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教え」ということです。
「死んだ行い」というのは、生ける神に背いて偶像礼拝によって営む生活を指しているということです。
「神への信仰」はもちろん天地の創造者なる唯一の神への信仰です。
その神は、終わりの日に死者を復活させ、最後の審判を行われる神、終わりの日の完成を目指して歴史を支配される神です。
ここに列挙されていることは、この時代の異邦人(ユダヤ人以外の諸国民の民)への福音宣教の際に教えることの内容なのでしょう。
ということは、この手紙の読者はユダヤ人ではなく異邦人か、あるいは、律法に関心のない離散ユダヤ人なのでしょうか。
読者がユダヤ人であれば、このような初歩的なことを教える必要はないと思うからです。
●4節.一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、
●5節.神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、
●6節.その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。
「成熟を目指して進みましょう。」(3節)という励ましながら、「聖霊にあずかり・・神の素晴らしい言葉と力とを体験し」その後に堕落した者の場合を取り上げて、その者は「再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。」としています。
わたしたちが今通っている教会では、一度救いにあずかれば、何があっても神は見捨てられるようなことはないと教えています。
ところがここでは、「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを」(5節と6節)体験した者でも、「その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。」としています。
再び立ち帰ることができない者とはだれか、それは「その後に堕落した者」が誰を指すのかが問題ですね。
それは「神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者」(6節)としていますから、これはキリストを捨てて迫害する方に回った者のことを言っているのでしょうか。確信犯ですね。
マルコの福音書3章29節に「しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」という聖句がありますが、そのことと同じことを言っているのでしょう。
●7節.土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。
●8節.しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。
このたとえ話に出てくる語句の背景には、農夫が神で、まく種は神の言葉で、農作物がわたしたちを指すのでしょう。
「茨やあざみ」は悪魔の誘惑に負けてしまった人を指しているのでしょう。
悪貨は良貨を駆逐するといいますがそういうことでしょうか。
農夫である神は、土地を耕して(神の言葉をまいて)役に立つ農作物、つまり神の言葉を伝える人々を育てます。
ところが、神に敵対する悪魔はその人たちを誘惑し、神の言葉を無意味なものにして、自分の陣営に誘い込み神の働きの邪魔をします。
せっかく育てた農作物であるその人たちは信仰を捨てて神に敵対する者となり、福音宣教の役に立たなく(実を結ばなく)なります。
役に立たなくなれば、「やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。」。
あれあれ、神の役に立たなくなった農作物(キリスト信仰を捨てた人のことか)は最後には捨てられてしまうのです。
「焼かれる」という表現は、地獄に落とされるということでしょうか。
●9節.しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。
●10節.神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。
「もっと良いこと、救いにかかわること」(9節)というのは、将来に大きな希望があるという確信を語っているのでしょう。
8節で厳しいことを書きましたが、ここ10節で著者は、今は、このように憂うるべき状態にあるが、「神は不義な方ではない」、つまり神は正しい方であるから、あなたたちが神の名のために(信徒たちに)示したあの愛(援助のことでしょう)をお忘れになることはないのだから、最後まで希望を持ち続けるように励ましています。
●11節.わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。
「最後まで希望を持ち続けるために、」と言っていますから、迫害や苦しみの中にいた人々は、希望が揺らいでいたのかもしれません。
この希望こそが、あなたたちを支えているのだから、(最初と)「同じ熱心さを」もって、希望を抱きつづけなければいけないと著者は読者に語りかけています。
●12節.あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。
信仰と希望を持ち続ける中で、培われるのが「忍耐」です。
そして、「約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者」となってほしいというのは、「約束されたものを受け継ぐ人たち」、すなわち、旧約聖書の信仰によって生きた人たちで、信仰の父アブラハムを代表として、その信仰を受け継いだ人たちを指しているのでしょう。
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