偉大な大祭司イエス(4章)
聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙4章14節から5章10節です。
一般的なキリスト告白(1章1節から3節)で、聖書を根拠にしての議論と具体的な勧告、そして、ここは本題です。
●14節.さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。
大祭司の務めは、民を代表して神の前に出て供犠を行い、民を執り成し、民が神に受け容れられるようにすることです。
古代では、神を崇める宗教ならば、どの民の宗教にも大祭司がいて、この役目を果たしています。
ところが、キリストの民には神殿も供犠の制度もないのです。
信徒それぞれに聖霊が内住されていますから、内におられる御霊に祈るだけでよいのです。
それに、イエス・キリストという「偉大な大祭司」が、「もろもろの天を通過」して、神の右に座して、わたしたちのために執り成しておられます。
さて、この「もろもろの天」とはどのようなものでしょうか。
天には複数の層があると聖書には書いてあります。
聖書を見ると、天には三つの種類の天があります。
一つは、わたしたちが目にしている周りの空間、もう一つは、わたしたちが見ている「空中」あるいは宇宙とよばれているところです。
その宇宙には、悪魔とか悪霊がいます。
そして、「第三の天」と呼ばれているところがあります。
パラダイスで楽園と言われるところです。
神の御座がある天国というところはパラダイスを指しているのか、それともその上にあるのかわかりません。
ただわたしは、パラダイスをキリストの民が死んだあと行くところで、天国までの中継地点と理解しています。
天国の詳しいことは、2011年8月10日投稿の「天国とは」を読んで下さい。
●15節.この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
「わたしたちの弱さ」ですが、わたしたちというのはキリストの民で、その民の弱さというのは、キリストの民は御霊によって日々新たにされているのですが、この地上においては、アダムから受け継いだ肉体をまとっているので、それゆえに罪を犯します。この肉というのは、神から離れているゆえに犯す罪の総称と認識しています。
だから、いつも霊と肉の間に葛藤があるのです。
けれども、主が再臨されるときに、新しいからだに変えられて神の国に迎えられるのです。
この新しいからだを持つまでは、わたしたちは肉の弱さを持ちながらこの地上を生きていかなければなりません。
この肉体はご存知の通り弱くて、疲れるし、衰えます。
それに、病にもなりますので罪の誘惑を受けやすいのです。
「弱さ」というのは、そのことを言っているのでしょう。
「同情できない方ではなく、・・わたしたちと同様に試練に遭われた」とは、イエスは罪を持っておられなかったが、地上におられた時に、肉体を持ち、試練を受け、わたしたちと同じ体験をされています。
だから、わたしたちの弱さが分からない方ではなく、わたしたちの弱さのすべてを体験し、すべてを知っておられる方なのです。
●16節.だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
悪魔はわたしたちの弱さに付け入ります。
わたしたちは弱さの克服するために、大祭司である主イエスの「憐れみ」と「恵み」と「時宜にかなった助け」を求めて、「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」と著者は勧めているのでしょう。
そのようにより頼む方がおられるキリストの民は、弱いから強い存在と言えます。
イエスは、キリストの力はわたしたちの弱さの中に完全に働くと言っておられます。
「恵みの座」は神の座のことですが、それは、キリストにおいて、神の御座はもはやさばきの御座ではなく、恵みの御座であるということでしょう。
●5章1節.大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。
旧約聖書によると、民と神の間を執り成す大祭司は人間の中から選ばれて、主が住まわれるところの幕屋で奉仕をする人たちです。
大祭司の仕事を調べましたので書いておきます。
大祭司は、最初モーセの弟アロンが、神から任命されて大祭司となり、その子孫が代々大祭司となっています。
大祭司は、贖いの生贄を祭壇の上で焼き、洗盤で手足を洗って、聖所の中に入ります。
そこには、燭台があり、日々、その火を絶やすことのないようにします。
そして、パンを供える台の上のパンを整えます。
また香壇があり、そこで香を炊いて、主の前への香りとします。
このようにして大祭司は、イスラエルの民に代わって、神の前に出て行って、神に礼拝をささげるのです。
大祭司は、聖所の中にある至聖所の中に年に一度入ります。
至聖所には、契約の箱と贖いの蓋があり、贖いの蓋には御使いケルビムがいます。
そのケルビムの間に、主がおられて、主の栄光によって、輝いています。
大祭司は年に一度、贖罪日のときに至聖所に入って、動物の生贄の血をたずさえて、イスラエルの罪の贖いをします。
こうしてイスラエルの罪がきよめられ、赦されて、神に受け入れられた者となります。
このように、大祭司は、神と人との間に仲介役の務めを行なっています。
大祭司は、「人々の中から選ばれ」ます。
それは、大祭司は人の弱さや罪を担いながら、神の前に出る存在であり、もし弱さを持っていなかったら、人の代表となることはできないからでしょう。
●2節.大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。
大祭司も人ですから、人としての弱さを持っています。
弱さを持っているので、「無知な人、迷っている人を思いやることができる」のです。
イエスも同じです。
イエスは罪を犯されませんでしたが、肉体をもってこの世に来られましたから、人としての弱さを体験し、あらゆる試みにあわれました。
だからわたしたちを思いやることもできるのです。
●3節.また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。
「自分自身のためにも」とはどういう意味でしょうか。
大祭司は、贖罪日にイスラエルの民の罪のために至聖所に入るのですが、その前に、自分の罪のための生贄をささげます。
レビ記16章6節には、大祭司「アロンは、自分の贖罪の献げ物のために雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行う。」とあります。
ただし、イエスはアロンと異なり、罪は犯されなかったので、ご自分のための生贄は必要ではなかったのです。
●4節.また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。
アロンは自己推薦をして大祭司となったのではありません。神がアロンを召し出して、彼を大祭司に任命されたのです。
キリストが大祭司であるならば、キリストの民も神に召されたのですから、キリストの民は祭司となります。
したがって、キリストの民は、神にどのような役目で任じられているかを知り、それに忠実に生きることが必要と言えます。
●5節.同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、/「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」と言われた方が、それをお与えになったのです。
●6節.また、神は他の個所で、/「あなたこそ永遠に、/メルキゼデクと同じような祭司である」と言われています。
「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」(5節)は、詩編2編7節の引用です。
6節は詩編110編4節の引用で詩編2編7節と共にイエスが神によって大祭司として立てられたことの論拠としているのです。
「メルキゼデクと同じような祭司である」というのは、イエスは、十字架につけられ、よみがえられ、天に昇られてから、神の右の座に着かれて大祭司となられましたが、それは、アロンから受け継がれるところの祭司ではなく、メルキゼデクの位と等しい祭司だということでしょう。
メルキゼデクについて、7章で詳しく取り扱われています。
●7節.キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。
●8節.キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。
キリストが「肉において生きておられたとき」ですから、キリストが大祭司となる前に、罪のない方が肉体をまとってこの地上を生きて、十字架につけられるという道を歩まれましたから、その苦しみについて説明しているのでしょう。
ここはおそらく、イエスが、ゲッセマネの園において、もだえ苦しみながら祈られたことを言っているのでしょう。
祈りを捧げられたのは「御自分を死から救う力のある方に」とあり、祈りが「聞き入れられた」とありますが、これは死を免れたということではなく、確かにイエスは十字架につけられ死にましたが、三日目に死者からの復活によって祈りが聞かれたということでしょう。
キリストはゲッセマネの園で、「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈られましたが、けれども、「しかし、わたしが願うことでなく、御心に願うことが行われますように」と祈られました。
このようにキリストはあくまでも父なる神の御心に従順でありました。
イエスが、「多くの苦しみによって従順を学ばれました。」ということは、キリストが現実の人間であることも強調しているのでしょう。
このように、キリストが人間の弱さを共にしてくださった方であることを描いているのでしょう。
●9節.そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、
●10節.神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。
キリストは御子であるにもかかわらず「多くの苦しみによって(父なる神への)従順」を学ばれたことによって、キリストに従う人たちの「永遠の救いの源」となられたのです。
再び、メルキゼデクのことに言及しています。
しかし、メルキゼデクのことは7章で詳しく言及し、ここでは詳しく話さないで、その前に、霊的問題について指摘しています。
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