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2019年10月29日 (火)

罪を贖う唯一のいけにえ(9章)

聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙9章23節から28節、10章1節から18節です。

 

●23節.このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。

 

ここでは神の幕屋における清めの問題が語られています。

 

地上の聖所(地上の幕屋)は天の聖所(天の幕屋)の写しだとしています。

 

「これらのもの」とは、生贄である動物の血のことで、大祭司が神に近づくためには、地上の幕屋は清められなければいけないのですが、天の幕屋は、「これらよりもまさったいけにえによって、」清められねばならないということでしょう。

 

神がおられる天の聖所も、罪人をご自分のところに受け入れるには、それ相当のいけにえが必要です。

 

天におられる神に近づくには、動物のいけにえよりも「まさったいけにえ」でなければならないのです。

 

●24節.なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。

 

キリストはご自分の血を携えて、「人間の手で造られた聖所」ではなく、「天そのものに入り」神の御前に現われて、「今や」わたしたちのために執り成して下さっているのです。

 

 

●25節.また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。

 

●26節.もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。

 

大祭司は年に一度、「自分のものでない血を携えて聖所」に入りましたが、この贖いの儀式は、毎年繰り返していました。

 

イエスもご自分の血(十字架)を携えて天の聖所に入られましたが、それは、何度も「御自身をお献げになるため」ではありません。一回きりです。

 

それはキリスト再臨の時、すなわち、「世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために」なされたのです。

 

そうでなければ、何度も罪を犯すことを繰り返す人間のためにキリストは何度も十字架で死ななければならないことになります。

 

だから動物の血ではなく、ご自身の血でもってわたしたちの罪を贖われたのです。

 

●27節.また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、

 

わたしたち人間は、何度も死ぬことなく、一度だけ死にます。そして死後に神の裁きを受けることが定まっています。

 

●28節.キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

 

同じように、キリストがご自分の血を献げられたのはただ一度です。

 

「二度目には」、すなわち、再臨の時に現れてくださるのは、罪を負うためではなく、キリストの民を救うために現れてくださるのです。

 

●10章1節.いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。

 

●2節.もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。

 

●3節.ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。

 

この1節から18節では、前節までのことを旧約聖書の祭儀と比較して詳しく語っています。

 

「律法(モーセ律法)には、やがて来る良いこと(終末時の救いの実現)の影」があるだけで「実体は」ないのです。

 

影ですから、毎年繰り返し献げられる(あの贖罪日の雄牛や雄山羊の)生贄は、人の罪を一時的に取り除くだけで、完全な者(永遠の贖い)にすることができないのです。

 

繰り返されること自体が、一時的なものであることを示しています。

 

それに、完全な者になったのなら、良心の呵責(罪の自覚、2節)もなくなるはずですが、実際はそうではありません。

 

逆に、罪を意識して献げ物をしているために、ますます自分が罪深いことを悟るようになり、そこでますます自分が、生贄によって赦されなければいけないと考えるようになります。

 

罪が赦されて、自由になるための生贄なのに、むしろ罪がますます意識されて、罪から逃げられなくて罪意識に悩むようになるような悪循環に陥ってしまうのです。

 

したがって、それらの供犠は「罪を取り除くことはできない」(4節)で、ただ「罪の記憶がよみがえ」らせる(3節)だけなのです。

 

●4節.雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。

 

罪を負う(贖罪)ことは、神の御前に出ることができるようになるためですが、新約聖書においては、贖罪は「一つになる」という意味があります。

 

すなわち、キリスト(の御霊)にあって神と一つになる、あるいは神と結ばれて交わりをするという意味があります。

 

だから新約聖書では、贖罪は単に罪を負うのではないのです。

 

罪を負うだけならば(取り除かれるのではないので)、外面的な、表面的な交わりを神と持つことはできますが、心からの、良心がきよめられた状態での神との交わりを持つことはできないのです。

 

その罪を取り除く力は、動物の血にはなく、神の子イエス・キリストの血だけにあるのです。

 

●5節.それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「あなたは、

 

いけにえや献げ物を望まず、むしろ、わたしのために/体を備えてくださいました。

 

●6節.あなたは、焼き尽くす献げ物や/罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。

 

この5節から10節で著者は、旧約聖書を根拠にして論証します。

 

まず、著者は詩篇40編7節から9節を引用(5節から7節の括弧の中)します。

 

もちろん、引用された聖書は七十人訳ギリシア語聖書です。

 

著者は七十人訳ギリシア語聖書を用い、キリストが世に来られたときに語られた言葉として引用し、それに著者の解釈を加えます。

 

この引用文で「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、・・好まず」(5節・6節)とあるのは、「第二のもの、」すなわち、「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされた」ただ一度の贖いを「立てるために、最初のもの(モーセ律法による供犠)を廃止される」(9節)ことの預言であるということでしょう。

 

著者は、このように聖書解釈の方法を駆使して、大祭司キリストの贖いが旧約聖書の祭儀制度を廃止すると主張します。

 

●7節.そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、/神よ、御心を行うために。』」

 

●8節.ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、

 

●9節.次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。

 

7節ですべての出来事は聖書に書いてあり、「神よ、御心を行うために」であるとします。

 

8節では6節と同じことをもう一度語ります。

 

「わたしは」(7節)は、キリストですから、「聖書の巻物にわたし(キリスト)について書いてあるとおり、/神よ、御心を行うために。」、すなわち、イスラエルが最初の契約であるモーセ律法によって生きることができなかったので、神は最初の契約を廃止(9節)され、第二の新しい契約を与えられたのですが、それは、彼らのために完全に罪の問題を解決する方法でした。

 

その方法は、人の罪の赦しのために、動物の生贄ではなく、ご自分の御子であられるキリストを、動物の生贄に代わる生贄として肉体をもってこの世に生まれるようにされ、御子の血を注ぎ出されることによって罪の贖いを完成させるためでした。

 

このように、キリストはご自分がわたしたちの罪のための(ただ一度の)生贄となることが神の御心で、それが行われたのです。

 

そのことはすべて聖書に書かれていることでした。

 

●10節.この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。

 

「聖なる者とされた」の元々の意味は、あるところから別けられて、引き離されるという意味だそうです。

 

したがって、ここは、この世から(神によって)別けられて、神のものとなる、という意味になります。

 

従って、聖なる者になるということは、仏教のように修行するからでなく、儀式にあずかるからでもなく、努力して信仰を深めるのでもないのです。

 

ただ神の恩恵による賜物によるのです。

 

賜物として信仰が与えられ、この世から分けられ正しい者と認められるのですが、これは正しくされたのではなく正しいとみなされるだけです。

 

正しくされるのは、キリストが再臨される時になります。

 

そして、「ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより」ですから、イエスが十字架の上で死なれたことにより、わたしたちは罪から引き離されて、神のものとなっている、ということになります。

 

●11節.すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、」決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。

 

大祭司は年に一度、贖罪日に至聖所に入り生贄を献げます。

 

祭司たちは毎日聖所に入り、イスラエルの民のために生贄を献げて、礼拝の務めをします。

 

それでは、「礼拝を献げるために立ち・・」とはどういうことでしょうか。

 

それは、大祭司は罪の贖いをするために座ることなく立ち働いていたので、そのように表現しているのでしょう。

 

それに比べて大祭司キリストは、唯一の献げ物(御自身の血)によって、神の聖前に出られたのです。

 

キリストがその血によって成し遂げられた贖いは、究極の贖いであり、それ以外のもの(それ以外の供犠)を廃止されるのです(11節から14節)。

 

●12節.しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、

 

●13節.その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。

 

祭司とか大祭司は、繰り返して生贄を献げていたのに対して、キリストは、唯一永遠の生贄を献下られました。

 

「永遠」ですから、もうこれ以上他に生贄を献げる必要はないのです。

 

途中で効力がなくなって、再び他の生贄が必要になるようなことはないのです。

 

キリストが十字架につけられた時にわたしたちの罪は過去・現在・未来のすべてにわたって無条件で赦されたのです。そう、なくなったのではなく赦されるのです。

 

そして、キリストは神の右の座に着かれたのです。

 

「敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられる」(13節)というのは、キリストが再臨されて、この世から悪魔の支配を完全に取り除かれるときのことを言っているのでしょう。

 

●14節.なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。

 

「永遠に完全な者となさった」とは、聖なる者とされた者が、完全な者とみなされただけで、完全になったわけではありません。完全な者になるのは、キリストが再臨される時になります。

 

●15節.聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。

 

●16節.「『それらの日の後、わたしが/彼らと結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『わたしの律法を彼らの心に置き、/彼らの思いにそれを書きつけよう。

 

最後にもう一度、あのエレミヤの「新しい契約」の預言が引用されています。

 

キリストが成し遂げられた究極の贖いにより罪の赦しがすでにあるのだから、罪を贖うための他の祭儀はもはや必要でないことがこの節から18節で確認されます。

 

「わたしの律法を彼らの心に置き・・」とは、信じる者に内住される聖霊のことでしょう。

 

新しい契約においては、聖なるすべての者に聖霊が注がれる約束がともなっています。

 

聖霊がわたしたちの内に住まわれ、働かれることによって、「彼らの思いにそれを書きつけよう。」ですから、新しい神の律法がその人の中で成就するようになるのです。

 

聖なる者は、聖霊によって、神の御声を聞き、生きている神を知り、神に従うときに、肉の行ないを滅ぼすことができるのです。

 

●17節.もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」

 

神は、わたしたちの「罪と不法」を思い出しはしないと宣言されています。
「思い出しはしない」ですから、罪が思い出されないようにすることによって、初めて罪の赦しが成り立つということでしょう。

 

いちいち過去の罪を思い出させて、今までこうであったがわたしはあなたを赦す、では赦しにならないのです。

 

●18節.罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。

 

「供え物」とありますが、罪が赦されるために一切の供え物は必要ないのですから、宗教的儀式とか祈りとか聖書を読むとか、伝道するとか、教会で奉仕をするとか、献金をするとか、そうした宗教的活動は一切必要ないということでしょう。

 

救われるに必要なのは、キリストの福音を受け入れることだけですから、わたしたちにはキリストの福音を受け入れるか拒むかの二つの選択肢しかないのです。

 

しかし、信仰を持つのも賜物ですから、人間い必要なのはキリストを受け入れる決心だけということになります。

 

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