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2019年10月 8日 (火)

前置き(ヘブライ人への手紙

この手紙は、パウロが殉教した後のアジア州のパウロが設立した集会の文書だということですから、パウロ以降のパウロ系集会でキリストの福音がどのように伝わっているかを知る上で重要な文書だと思います。

 

この手紙には、差出人と受取人が書かれていないので、文書の内容から推察する他ないのでしょう。

 

しかし、「ヘブライ人への手紙」となっていますから、受取人はヘブライ人、すなわちユダヤ人であると思います。

 

なお、13章24節の「イタリア出身の人たちが、あなたがたによろしくと言っています」という言葉から推測すると、著者がイタリア以外の地にいて、そこからイタリアの信徒たちにこの手紙を送るときに、一緒にいるイタリア出身の人たちが故国の兄弟たちに挨拶を送っているとする見方もできます。

 

当時イタリアにあるキリスト者の集会としては、まずローマの集会が考えられます。

 

ローマではユダヤ人信徒と異邦人信徒が混在していました。

 

 

次に書かれた時期ですが、この手紙のことが、古代ローマの政治家であるクレメンス(初代教会時代のローマ司教、96年没)が書いた第一の手紙(書かれたのは96年で、コリントの集会で起きたトラブルを仲裁しようとして書かれた手紙)で引用されていることから、ヘブライ書は95年ごろまでに書かれたとされています。

 

その時代は、ローマ皇帝はドミティアヌス帝(在位81~96年)の時代で、彼はネロの次にキリスト教徒を迫害した皇帝として有名です。
その迫害の実体はよく分かっていないということです。

 

ただ、ローマ帝国による組織的迫害ではなく、単発的なものであったのではということです。

 

したがって、殉教者を出したのも一部のグループであったと考えられています。

 

この手紙が書かれ目的は、手紙の宛先の集会の人が、最初のころの「苦しい大きな戦いによく耐えた」(10章32節)信仰生活は、時間がたちマンネリ化し、緊張感を失い、その信仰生活にほころびが見え始めました。

 

そのほころびと言うのは、集会を離れる者(10章25節)、違った教えに惑わされる者(13章9節)、みだらな生活に陥る者(同4節)が出て来たのです。

 

そこで、かつての集会の指導者であった著者が、信仰生活にほころびが見え始めた手紙の宛先の集会に、この勧告の書を送ったのではと思われます。

 

もし、この手紙がヘブライ人、すなわち、ユダヤ人キリスト教徒に送った手紙とすれば、一旦はイエス・キリストを信じる生活に入ったが、その苦難の道に疲れて、元のユダヤ教に戻ろうとするユダヤ人に対して、イエス・キリストの教えがユダヤ教の教えよりも、いかに素晴らしいかを論証し、キリストへの信仰を励ますために書かれたことになります。

 

しかし、この手紙の内容は、具体的な問題をかかえている特定の一集団に宛てられた勧告ですから、そうでもないかも知れません。

 

著者ですが、この手紙には誰であるかは書かれていませんが、洗練されたギリシア語で書かれていますので、高い教養がある個人であると見られているそうです。

 

13章21節から推察して、テモテと一緒に行動できる人物ということがわかります。

 

手紙の内容から、パウロが開拓した土地でキリストの福音に接し、信仰に入った人物であろうと推察されていますが、その著者はいまだに特定されていないということです。

 

手紙の内容は、13章22節で「勧めの言葉」としています。

 

すなわち、実際の信仰生活の中で、様々な困難や誘惑に遭遇している信徒たちに、キリスト信仰に固く立つように励まし、信じぬくように説いている説教だということです。

 

自分たちが信じているキリストのすばらしさと、頼るに値する方であることを明らかにした後、このキリストに従い、信じ抜いて困難に立ち向かい、誘惑に打ち勝つように説き勧めています。

 

最後にこの手紙を読んだわたしの感想を書いておきます。

 

わたしはこの手紙を読んで最初の感じたことは、教科書的なキリスト教だということです。

 

 

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