新しい、優れた約束の大祭司(8章)
聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙8章1節から13節です。
7章で「メルキゼデクの位に等しい大祭司」としてのイエスの地位が、旧約聖書のアロンから受け継ぐ祭司制と比べていかに優れたものであるかが語られたのを受けて、ここ8章ではこの大祭司イエスが祭儀を行う場所がいかに優れたものであるかが論じられ、同時に大祭司イエスを仲介者として保証される神と民とを結びつける契約が、モーセ契約と比べていかに優れているかを論じます。
●1節.今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、
●2節.人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。
ここで聖所とか幕屋とイエスの関係について簡単にまとめておきます。
イエスは、「天におられる大いなる方の玉座の右の座」(1節)に着座されている方です。
右の座ということは、神に次ぎ権威をもっておられることを示しています。
地上において祭司が奉仕している幕屋は、後に神殿と呼ばれるものですが、人間が、幕屋の器具や祭具、板、幕などを作りますが、それらは、いつかは綻んでなくなってしまうものです。
地上の祭司は、その幕屋で日々、生贄を献げ、奉仕をして、まだ完成していない贖いを達成しようと、何度も同じことを行なっています。
ところが、イエスは「人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で」仕えておられるのです。
「真の幕屋」は、人間ではなく神ご自身が設けられたところですから、地上の幕屋のように一時的なものではなく、永遠のものです。
●3節.すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません。
罪の贖いには、献げものは必ず必要です。
大祭司は、「供え物といけにえとを献げる」のが仕事でした。
「この方」イエスも、わたしたちの大祭司として「何か献げる物」を必要とされるのですが、それはご自身であったのです。
●4節.もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。
アロンの位の祭司によって、律法が完全に行われるのならば、メルキゼデクの位に等しい大祭司を立てる必要はないということでしょう。
●5節.この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。
天に幕屋があり聖所があるのに、地上にも幕屋あるいは神殿があるのはどうしてなのでしょうか、その答えがこの節です。
地上の幕屋は、「天にあるものの写しであり影である」というのです。
そこで分かることは、出エジプト記の25章以降で、幕屋を作るに際し、神は、祭具や幕や板の設計が、細部に至るまで指示されています。
その寸法、形状、材料、色など、事細かな指示があり、神はモーセに、「示された型に従って、すべてものを作りなさい。」と命じられたのです。
なぜそこまで詳しく定められたのかを考えれば、それが天におけるものの写しと影だからと言えます。
ということは、聖書は、天はどのような所かを啓示しているからで、それを真の天の影とすると、わたしたちは聖書を読むことによって、天(神の国とか天国)とはどのようなところであるか、どのような存在であるかを推測することが出来ます。
●6節.しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。
「わたしたちの大祭司」とは、イエス・キリストのことです。
それでは「それよりはるかに優れた務め」とは何でしょうか。
それは、メルキゼデクの位に等しい祭司の務めで、その務めは、天において父なる神の右に着座されている方にふさわしい務めです。
その務めの内容は、わたしたちのための(罪の)執り成し、ということでしょう。
それは、「約束による・・契約の仲介者」としての務めです。
神が預言者エレミヤを通して新しい契約を与えるという約束をされていたことを受けたものです。
正確には、イスラエルの南ユダ国が、バビロンによって滅ぼされて、捕囚の民となることを預言したエレミヤを通して、与えられた約束です。
エレミヤは、神がモーセに「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい」と預言された言葉である、レビ記26章33節の「わたしはあなたたちを異国に追い散らし、抜き身の剣をもって後を追う。あなたたちの国は荒れ果て、町々は廃虚と化す。」、34節「国が打ち捨てられ、あなたたちが敵の国にいる間、土地は安息し、その安息を楽しむ。」が間もなく実現することを知っていました。
同時にエレミヤは彼らを回復させるという神の約束の言葉も受けていました。
それは、エレミヤ書31章31節から34節の新しい契約です。
著者はこの新しい契約(預言)を引用するのですが、この預言の前半(31節から32節)を引用して、(古い契約には欠けたところがあるから)新しい契約が与えられるとし、神は、この預言でこの契約の民イスラエルを非難しておられるとします。
そして、後半(33節から34節)を引用して、代わって与えられる新しい契約の内容を語ります。
その契約においては、契約の言葉は石の板に刻まれるのではなく、民の心に書きつけられます。
そして、神の側の決定的な働きによって、民の罪が拭い去られます。
このような「新しい契約」が与えられることによって、最初の契約(モーセ契約)は古くなり、いらなくなります。
この預言を、すなわち、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を「新しい契約」だとする考えがあるようですが、内容を見ればそれは少し無理かなと思ったのですが、当時初期の福音宣教ではそのように理解されていたようです。
預言の内容も、イエスにおいて実現したと言っても間違いではないのでしょう。
神がモーセを通して与えられた古い契約は、イスラエルが従順であることが必要条件でしたが、神がエレミヤを通して約束されたことは、神が一方的に行なわれる無条件の契約でした。
イエスは、このエレミヤを通して与えられた神の約束に基づいて、新しい契約をご自分の血で有効とされたということでしょう。
そしてこの契約に基づいて、イエスは大祭司として、父なる神に仕えておられるのです。
こうしてイエスは、「更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者」になられたのです。
●7節.もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
「最初の契約」とは、モーセを通して神がイスラエルと結ばれた契約ですが、それ欠けていることは前に書きました。だからモーセ律法は「弱くて無益なために」(7章18節)廃止されたのです。
●8節.事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、/新しい契約を結ぶ時が来る』と、/主は言われる。
エレミヤが預言した、新しい契約(エレミヤ書31章31節)が引用されています。
●9節.『それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、/エジプトの地から導き出した日に、/彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、/わたしも彼らを顧みなかった』と、/主は言われる。
「彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、/わたしも彼らを顧みなかった」としています。
神は、イスラエルの民が契約に忠実であれば、新しい契約を結ばれなかったでしょう。
古い契約であるモ-セ律法は、イスラエルの民は守ることが出来なかったので、イエス・キリストのよって新しい契約を結ばれたということは、古い契約による救いの成就の可能性は全くなくなったということでしょう。
とすると、神は、人間は古い契約であるモ-セ律法を守れないことはよくご存じであったのでしょうから、そういうプロセスも新しい人間の誕生には必要であったということでしょう。
●10節.『それらの日の後、わたしが/イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。
神がエレミヤに預言された新しい契約の内容です。
新しい契約の特徴は、神の律法は「彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけ」られることです。
古い契約であるモーセ律法の十戒は、大きな石に書きしるして、それをエバル山に立てなさい、と命じました(申命記27章)。
また、古い契約であるモーセ律法は、行ないによって守りなさいということでした。
しかし、新しい契約は違います。
新しい契約は、まずわたしたちの罪が、キリストの血によって取り除かれたうえで、神の御霊が注がれ、その御霊の働きにより、わたしたちは新しい契約が守られるように変えられて導かれます。
「わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。」ですが、新しい神の律法がわたしたちの心に書き記された結果、神がわたしたちの神となり、わたしたちは神の民となるということでしょう。
ということは、神とわたしたちは個人的、人格的な関係を持つことができる、ということです。
したがって、信仰とは人間の神に対する人格的な信頼だと言えます。
子どもが何の疑いもなく親を信頼して、親が呼びかける声に反応するように、神を知り、何の疑いもなく神を信頼して従っていくことが、信仰と言えるでしょう。
●11節.彼らはそれぞれ自分の同胞に、/それぞれ自分の兄弟に、/「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、わたしを知るようになり、
10節を受けて、わたしたちはそれぞれの心に神の律法が書き記されたゆえに、「それぞれ自分の兄弟に、/「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。」のです。
なぜなら、神の御霊がその人の内におられますから、その人はすでに神を知っているからです。
「小さな者から大きな者に至るまで」というのは、すべての人に御霊が注がれるということでしょう。
ですから、聖書知識が乏しくても、平信徒でも、聖職者でも同じように神の御霊が注がれるのです。
聖職者は、言葉を仲介しますが、信仰をもたらせられるのは、その者に内住された御霊の働きです。
御霊の内住はすべての信仰者に与えられますから、すべての人が、ただキリストにあって歩むときに、その者は教師であり、また生徒となっていると言えます。
互いに教え、また互いに学ぶ姿が、キリストの民の集会のあり方だと思います。
●12節. わたしは、彼らの不義を赦し、/もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」
神は過去の罪は一切問わないといわれています。
それも無条件ですから、完全な罪の赦しの宣言です。
この趣旨は、イエスが十字架につけられたとき、過去・現在、未来の一切の罪を負われ、すべての罪が取り除かれたのです。
「彼らの不義を赦し」の赦しは、現在の、また将来の罪も完全に贖われたということでしょう。
●13節.神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
エレミヤを通して新しい契約を結ばれましたから、モーセに与えられた契約は、「古い」ものとされました。
新しい契約が与えられた以上古い契約は間もなく消え失せます。
「間もなく」とわざわざ書いているということは、すぐには古い契約も消え失せないということでしょう。
それは、わたしたちは長い間自分の行いをもって契約を成就することに励んできましたから、その習性からなかなか抜け出せないし、すべてを新しくされる神の御霊の働きも、少しずつその人を変えていくので、すぐには古い契約も消え失せないということでしょう。
神は、その力をもって一度にわたしたちを造り変えようとはされていないのです。
あくまで、キリストを受け入れるための人間側の努力を、決心を求めておられるのです。
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