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2019年10月20日 (日)

神の民の安息(3章)

聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙3章7節から4章13節です。

 

●7節.だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、

 

●8節.荒れ野で試練を受けたころ、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。

 

●9節.荒れ野であなたたちの先祖は/わたしを試み、験し、/四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して/憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、/わたしの道を認めなかった。』

 

●10節.荒れ野であなたたちの先祖は/わたしを試み、験し、/四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して/憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、/わたしの道を認めなかった。』

 

●11節.そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』と。」

 

著者は、イスラエルであるキリストの民に「あなたたち」と呼びかけています。

 

あなたたちの先祖が、出エジプト後の荒野でどのような道を歩んだかを思い出させています。

 

かつて、イスラエルの民はエジプトで奴隷状態にありましたが、神の不思議と力あるわざによって、脱出することが出来ました。

 

 

脱出後、荒野の旅をしましたが、神は民の願いによって、神は数多くのしるしによって民を助け導きました。

 

神はいつも民と共におられたにも関わらず、イスラエルの民は何度も神を試して、神を信じませんでした。

 

そのために、彼らは約束の地に入るまで荒野で40年間さまようことになったのです。

 

著者が、このような話を持ち出したのは、この手紙の読者であるユダヤ人キリストの民の現状が同じような危機的な状況があったのでしょう。


また、キリストの民の世代も変わり、彼らは、キリストが地上に来られて、死者の中から復活されたという神の驚くべき御業を体験した世代はすべて死んでしまって、誰もいなくなっていた。

 

聖霊の働きは衰えて、キリスト信仰がマンネリ化し、信仰に疑義を持つ者が増えて、この手紙の読者の神への思いが冷めていたのかも知れません。

 

そのような時代のことをマタイは16章4節でイエスの言葉で、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。」と書いています。

 

●12節.兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。

 

「信仰のない悪い心」とか、「神から離れてしまう者」と書いていますから、当時の問題は「不信仰」であったのでしょう。

 

●13節.あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。――
「罪に惑わされてかたくなにならないように、」ですが、この罪は傲慢という罪のことを言っていると思うのです。

 

現実は不信仰に陥っているのに、自分は大丈夫だと思ってしまうことでしょうか。

 

「今日」という日のうちに、ということは、神の言葉を聞くにはその時があるということでしょう。

 

その時を逃せば、またいつ聞くことができるかわからないのです。

 

そこで、著者は、その機会を逃さないためにも「日々互いに励まし合いなさい」と勧めているのです。

 

キリストの民は、日々交わり励ましあうことによって、不信仰に陥らないようにしなければならないのです。

 

●14節.わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。

 

「最初の確信」とは、救いの言葉を聞いて、キリストを受け入れ、信仰に入った時に与えられた救いの確信でしょう。

 

その時には、キリスト信仰に希望と誇りを持ったはずです。

 

わたしが洗礼を受けようと決心したのは、不思議な御霊の体験でした。

 

そのことによって、これは本物だと思ったのです。

 

つまり、キリスト信仰に確信が与えられたのです。

 

信仰を持った人たちに聞くと、ほとんどの人がキリスト信仰に入る時には、そういう信仰に確信を持たせるような不思議な霊的な体験をしておられます。

 

だからキリスト者は強いのでしょうね。

 

その最初の確信を「最後までしっかりと持ち続ける」こと。

 

そうすることで、キリストが再臨されるときに「キリストに連なるものとなる」のです。

 

信仰に入ることによって、信仰のゆえにいろいろな問題に遭遇します。

 

外からの誘惑もあり、信仰生活を守るために、いろいろと思い悩むことも出てきます。

 

しかし、何があっても忘れてはいけないのは、ただ一つ、最初の確信をしっかりと持ち続けることなのです。

 

キリスト信仰に入った時に聞いた言葉と体験は、あなたに語りかけられた神の言葉なのです。

 

その時を逃さず受け入れたのですから、その時に聞いた言葉と体験を忘れてはいけないということでしょう。

 

●15節.それについては、次のように言われています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/神に反抗したときのように、/心をかたくなにしてはならない。」

 

ここは詩篇95編7節から11節を引用して、聞いた神の言葉に対して心をかたくなにしないように忠告し、心が「かたくなに」なった場合の恐ろしさを以下19節までで警告します。

 

なお、詩編95編の解説を読みますと、「95編は万物の創造者であり支配者である主によって救われた民の幸せを賛美しているのですが、その後半部で、荒野で主を試みて約束の地に入ることができなかった出エジプトの時の出来事を先例として、ユダヤ人キリストの民に「今日こそ、主の声に聴き従わなければならない」と、その救いを失わないように警告しています。」

 

著者は、その後半部を引用して、ともすれば福音の言葉によって聞いた、来るべき世で栄光と安息にあずかるという約束を信じ切れないで、この世の安楽に立ち戻ろうとする兄弟たちに「最初の確信を最後までしっかりと持ち続ける」ように励ましているのでしょう。

 

そして、詩篇に書いてあるように、このヘブライ書を読んでいる「今日」こそが、神の約束の言葉を聞き、その言葉に聞き従うように呼びかけられている日なのです。

 

この「今日」というのは、荒野の日も、この詩篇が歌われた日も、あなたがたがヘブライ書を手にした日も、そして、今わたしたちがこの書を読む日も、みなこの「今日」だと言っているのでしょう。

 

「心をかたくなにしてはならない」とありますが、かたくなとは心が柔軟ではない状態ですから、

 

それは、不信仰という状態に陥り、神の言葉を受け入れなくなるということでしょう。

 

不信仰な状態が長く続くと、本当に神の言葉に無感覚になり、神の言葉を聞くときがきても何も感じなくなってしまう、という状態に陥ってしまいます。

 

だから、その様にならないように、「最初の確信を最後までしっかりと持ち続け」ながら、日々励ましあって毎日を過ごしなさいということでしょう。

 

ヨハネの黙示録にこのような主の言葉があります。

 

ヨハネの黙示録3章16節「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」

 

●16節.いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。

 

●17節.いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。

 

●18節.いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。

 

●19節.このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。
イスラエルの民は、エジプトを出てから40年の間荒野を放浪し、約束の地に入れなかったのは、不信仰が原因でした。

 

「彼らが安息にあずかることができなかった」(19節)というのはそのことを指しているのでしょう。

 

そのためにエジプトを出た時に20歳以上であった人々は、すべて荒野で滅ぼされました。

 

それは神が、イスラエルの不信仰を憤られたからです。

 

キリストの民の安息というのは、キリスト再臨の時にキリストに連なる者となること。

 

すなわち、来るべき世で、栄光と安息にあずかることでしょう。

 

著者はこうして、この7節から19節で安息に入ることを妨げる不信仰の恐ろしさが警告します。

 

●4章1節.だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。

 

19節の「彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであった」を受けて、「だから」と続けます。

 

「神の安息にあずかる約束がまだ続いている」というのは、キリストの再臨の時にキリストに連なる者となること。

 

すなわち、来るべき世で、栄光と安息にあずかる約束はまだ有効だとして、「取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように」と忠告していますから、どうやら別の集会で取り残されたと思う者が出てきたようです。

 

別の集会の例をあげてそのようにならないようにと警告しているのでしょう。

 

●2節.というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。
その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。

 

エジプトを脱出してきたイスラエルの民は、何度も神の言葉を聞いていました。

 

彼ら(イスラエルの民)の聞いた福音とは、約束の地カナンに入ることができるという神の約束でしょう。

 

それと同じようにわたしたちも、イエス・キリストの福音の約束の言葉(来るべき世で、栄光と安息にあずかる)を聞いているのです。

 

けれども、もし、この福音を聞きながら、なおかつそれを、信仰をもって受け入れなければ、どうなるのでしょうか。

 

イスラエルの民が、荒野の中で滅んでしまったように、わたしたちも滅んでしまうのです。

 

イスラエルの民が、約束の地に入ることができなかったのは、「その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。」としています。

 

イスラエルの民は、神の声を聞いていましたが、モーセとは異なり、神の言葉をただ聞いていただけで、信仰によって受け入れていなかったのです。

 

●3節.信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、/『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。

 

「信じたわたしたちは、この安息にあずかる」というのは、来世において安息を得る、ということですが、それを証明する聖書個所は、3章7節から11節までに引用されていた詩篇95篇の個所です。

 

「彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』は、詩編95篇11節の「わたしは怒り、彼等をわたしの憩いの地に入れないと誓った」を引用しているのでしょう。

 

この箇所から、著者は、イスラエルの民にまだ安息は到来していないことを説明しているのでしょう。

 

その意味は、聖書の言う安息とは、すべてのものが完成し、その完成した状態を安息と言っているのです。

 

すなわち、神は創造の御計画(天地創造以来の神の業)を六日間なされて七日目に休まれたとありますが、その七日目はまだ来ていない、神の創造の御計画は完成していないという認識です。

 

神が創造の御業を休まれるのは、創造の御業が完成した時ですから、まだ完成していないので、七日目はまだ来ていないのです。

 

ということは、詩篇95篇でダビデが言っている安息は、終わりの日に与れる約束の地のことではないということになります。

 

4節以降を読みわたしはそのように解釈したいと思います。

 

●4節.なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。

 

●5節.そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。

 

●6節.そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、

 

●7節.再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、/「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。

 

●8節.もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。

 

●9節.それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。

 

先に書きました通り、神の民(最初はイスラエルで今はキリストの民)のためにまだ安息日の休みが残されているというのが、ダビデが詩篇95篇で約束されているという安息の意味だと思います。

 

●10節.なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。

 

著者は1節から10節で、神が「わたしの安息」と言われる安息、すなわち神の安息に不信仰によって入ることができなくなることを警告した著者は、信じる者にはこの神の安息に入る約束が残っていることを、(旧約)聖書によって根拠づけて、キリストの民の信仰を励ましました。

 

●11節.だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。

 

「この安息にあずかるように努力」というのは、キリストがすべての救いの業を成し遂げられたのだから、その信仰の中に留まっているように努めなさい、ということでしょう。

 

キリストの内に留まることが戦いなのです。

 

誘惑と苦難の多いこの世を生きながら、信仰を健全に保ってキリストの内に留まるというのは戦いなのですね。

 

力を尽くして、キリストが天において用意されている安息に与れることを目指して、堕落しないように努力しなさいということでしょう。

 

●12節.というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。

 

ここで著者は、「神の言葉は生きており、・・」といって、詩編95編の聖書箇所の神の言葉が、わたしたちにいかに大きな影響を持っているかを話します。

 

神の言葉である聖書は、単に書かれた文字ではなく、生きていて力があるのです。

 

その力はわたしたちを変容させる力です。

 

もちろん、その働きの主体は三位一体の神の三位格である聖霊です。

 

「両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、」とありますが、ここには、わたしたちは体だけではなく「精神と霊」(霊魂)で造られていると言っているのでしょう。

 

つまり、人間は「精神と霊」ですから、精神(魂)、すなわちわたしたちが考え、感じ、また意思決定をする部分のほかに、霊が備わっているということでしょう。

 

「霊」とは、神を認識というか、意識する部分です。

 

そして、神の言葉は、この魂と霊の分かれ目を「切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分ける」力があるといっているのです。

 

●13節.更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。

 

この呼びかけは、「今日」(今)この勧めの言葉を聴いている読者一人ひとりに向けられた安息への、つまり、終末に備えるための呼びかけでしょう。

 

著者は、ご自分の働きのすべてを休まれる終末である「神の安息」に、信仰によってあずかるように呼びかけます。神の安息は終末における神の栄光の完成と同じです。

 

この安息にあずかるように努めよと促し、その理由として、神の言葉は、「両刃の剣よりも鋭い」(12節)ので、「隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されている」のだから、と述べてこの励ましと勧めを締め括ります。

 

最後に、イエスの言葉を書いておきます。

 

「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」(ルカの福音書12章2節と3節)。アーメン

 

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