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2019年10月29日 (火)

地上の聖所と天の聖所(9章)

聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙9章1節から22節です。

 

●1節.さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。

 

「最初の契約」とありますが、これは8章に記されている契約、すなわち、モーセを通して与えられた律法のことで、古い契約のことでしょう。

 

こうした古い契約と新しい契約には大きな違いがあるのですが、古い契約においても「礼拝の規定と地上の聖所」についての説明があります。

 

●2節.すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。

 

●3節.また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。

 

●4節.そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、

 

●5節.また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。

 

著者はここ1節から5節で、最初の古い契約、すなわちモーセ契約において神を礼拝する場所の構造を(現実の神殿ではなく旧約聖書の幕屋に関する規定から)解説します。

 

このような詳しい解説は、この手紙の読者がユダヤ人ではないから必要であったのっでしょう。

 

 

神を礼拝する場所としての幕屋は、第一の幕屋(聖所)と第二の幕屋(至聖所)に分かれていました。

 

それぞれに各種の用具がありますが、幕屋が聖所と至聖所に分かれている構造だけを取り上げます。

 

「今はいちいち語ることはできません。」というのは、幕屋の詳細は、出エジプト記25章以降に詳しく書かれているので省略したということでしょう。

 

簡単に幕屋の構造をまとめておきます。

 

第一の幕屋を東側から入ると、左手に燭台(火を絶やさないのも祭司の仕事)、右手には「供え物のパン」を供える机があります。

 

パンは12供えられるのですが、それは、イスラエル12部族を表していて、週ごとに新しいパンに取りかえるそうです。祭司はそれを食べて礼拝をささげます。この幕屋が聖所と呼ばれるところということです。

 

そして、第二の垂れ幕があり、その後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋があります。

 

そこには「金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱」があります。金の香壇には、香がたかれて、それは主への祈りとなります。

 

契約の箱の中には、「マンナの入っている金の壺」、「芽を出したアロンの杖、契約の石板(十戒が刻まれた)」が二枚納まっています。

 

「箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆って」、すなわち、純金で出来た贖いの蓋があり、二人のケルビムがちょうど翼を交差させるような形で向き合っているということです。

 

●6節.以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。

 

●7節.しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。

 

聖所と呼ばれている第一の幕屋には、祭司たちがいつも入って礼拝を行ないますが、第二の幕屋の至聖所には大祭司が年に一度だけ入ります。

 

大祭司の務めとか贖罪日はレビ記に書いてあります。

 

年に一度大祭司が至聖所に入るときには、贖罪のために「自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて」入ります。

 

自分自身の罪と、イスラエルの罪の贖いのために献げる血を携えて、その血を贖罪所に注いで罪の贖いのための祭儀を行います。

 

そのほかの詳しいことは省略します。
●8節.このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。

 

●9節. この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。

 

この聖所と至聖所をさえぎる幕(神と人とを遮る幕)が、イエスの十字架死の時に切って落とされ、新しい生贄(キリストの血と肉)が神に受け入れられたのです。

 

こうして「聖霊は」、すなわち、御霊を内に宿す者は誰でも神に近づくことができるようになったのです。

 

そして、新しい契約が締結されたのです。
著者は9節で、「この幕屋とは、今という時の比喩です」と、その意義を説きます。

 

「今という時」とは、「この終わりの時代」(1章2節)を指し、神が御子イエスによって最終的にその救いの働きを成し遂げられた時代、すなわち今現在で、終わりの日の現実を指しているのでしょう。

 

古い契約による幕屋での礼拝の規定(祭儀体系全体)は、「今という時の比喩」であると書かれています。

 

本物を指し示す象徴ではあるけれども、実体ではないのです。

 

大祭司は年に一度至聖所に「自分自身のためと民の過失のために献げる血を携えて」入り、その血を贖罪所に注いで罪の贖いのための祭儀を行いますが、ささげ物と生贄が捧げられても、本当の意味で罪がきよめられているのではないのです。

 

したがって、「良心を完全にすることができない」、すなわち、完全に清められていないのです。

 

著者は旧約聖書の祭儀体系全体を「今の時の比喩」とします。

 

すなわち、聖書を予型論的に解釈しているのです。

 

予型論というのは、旧約聖書の人物や出来事や制度などを、神が終末時に完成してくださる救いの出来事を予め指し示すための「型」とする聖書解釈の方法ですから、ここで著者は、この予型論の方法を駆使して、大祭司キリストの働きがどのような質のものであるかを説いているのでしょう。

 

●10節.これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません地上の幕屋は、聖所には祭司だけが、至聖所には大祭司だけが年に一度だけはいることができたのです。

 

●11節.けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、

 

●12節. 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。

 

祭儀体系全体は、「改革の時まで」(10節)課せられた肉の規定に過ぎないことを明らかにした上で、11節と12節で、これと比べて大祭司キリストは、はるかに優る働きをしてくださったとし、その違いを説きます。

 

地上の幕屋は、「聖所には祭司だけが、至聖所には大祭司だけが年に一度だけ」(10節)入りました。

 

キリストは、「人間の手で造られたのではない、」(11節)完全な幕屋の中に入られました。

 

つまり、天における神の御座の中に、そのまま入っていかれたのです。

 

祭司は「雄山羊と若い雄牛の血」をたずさえて聖所の中に入りましたが、キリストは、「御自身の血」をたずさえて、まことの聖所の中に入られたのです。

 

そして、祭司のように期限付きでなく、(わたしたちのために)絶対的な「永遠の贖いを成し遂げられた」のです。

 

新しい契約における土台は、こうした神の御子ご自身の血という犠牲の上に成り立っています。

 

キリストの贖いは、効力が失われて、再び贖いのわざを行なわなければいけない、というものではなく、永遠に罪の赦しが及ぶ、不可逆的で、絶対的な贖いだったのです。

 

こうして著者は、キリストの十字架の出来事が、旧約聖書の祭儀制が予型として指し示していた「永遠の贖い」であると説いているのです。

 

復活して高く挙げられ、神の右の座に着座された大祭司キリストは、同時に罪の贖いのために屠られる犠牲でもあったのです。

 

その贖いは、犠牲の動物の血ではなく、「御子の血による贖い」 であるので「永遠の贖い」となるのです。次節以降その消息が続いて語られます。

 

●13節.なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、

 

●14節.まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。

 

先に地上の幕屋で行われる祭儀が「礼拝をする者の良心を完全にすることができない」(9節)もの、すなわち、不完全なものとされていました。

 

注がれる動物の血は「身を清める」(13節)だけでしたが、それに対して、キリストの血は「わたしたちの良心を死んだ業から清める」(14節)ものとされます。

 

ここで「良心を清める」とは、人間の潜在意識を指すと思いますので、人間の表面的な行動ではなく、人間の心の奥底まで変革して、神に受け入れられ、神と共に生きる存在にすることを意味しているのでしょう。

 

「神に献げられたキリストの血」が、すなわち、わたしたちの良心を清めるのは、唯一、キリストの血によるのです。わたしたちが十字架を見上げるとき、わたしたちの良心は完全に清められるのです。

 

その時に初めて、わたしたちは本当の意味で「良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝する」ことができるようになるということでしょう。

 

●15節. こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。

 

「キリストは新しい契約の仲介者」ですから、イエス・キリストが十字架で血を流して死んでくださったことにより、新しい契約が成立し、イエスが新しい契約の仲介者となったのです。

 

そして、この死は新しい契約を成立させ、古い契約、すなわち、律法を(廃止ではなく)成就させてくださったのです。

 

ですから、キリストにある者は、もはや罪の咎めを受けることはありません。

 

●16節.遺言の場合には、遺言者が死んだという証明が必要です。

 

●17節.遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません。

 

15節の「契約」という言葉と、ここの「遺言」という言葉は、同じギリシヤ語が使われているそうです。

 

契約が成立するためには、「死んだという証明」が必要であることを、遺言制度をもって説明しているのでしょう。

 

遺言に書かれていることは、遺言者の死によって有効になります。

 

したがって、イエスが死なれたことによって、新しい契約が有効となるということでしょう。

 

●18節. だから、最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。

 

●19節.というのは、モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、

 

●20節.「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と言ったからです。

 

神から与えられた「最初の契約」であるモーセ律法をモーセがイスラエルの民全体に告げるとき、献げられた「若い雄牛と雄山羊」の血を取って、それを「契約の書自体と民全体」に振りかけました。

 

そして、「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と言いました。

 

このことは、出エジプト記24章5節6節8節に書かれています。

 

●21節.また彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。

 

●22節.こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。

 

「幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具」(21節)にも血が振りかけられました。

 

こうして著者は、出エジプト記24章を用いてモーセ契約も血を注いで契約が成立したことを語り、「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」として、御子イエスの血が「契約の血」であるとします。

 

血は死を象徴しています。

 

血を流して死なれたキリストは、「新しい契約の仲保者」(契約を成立させ保証する方)であることを確認し、その上で、旧約聖書の祭儀における動物の血が人や器具を清める血であったように、キリストの血は罪を清める血であるとして、23節から罪の「贖い」の話になります。

 

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