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2019年10月17日 (木)

イエスはモーセに優る(3章)

聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙3章1節から6節です。

 

この手紙はユダヤ人であるキリストの民に書かれたと思うのですが、彼らはイエスを約束のメシヤであると信じていましたが、ユダヤ教を捨てないで、ユダヤ教の中で生活をしながらキリスト信仰を守ろうとしていました。

 

もちろん、ユダヤ教徒たちからの迫害もあったでしょう。厳しい信仰生活の中で、迷いもあったでしょう。

 

当時ユダヤ教を捨てるということは、ユダヤ人の生活共同体から離れることですから、生きてはいけなかったと思います。

 

そこでこのヘブル書の著者は、イエスが、ユダヤ教の柱であるモーセを取り上げて、イエスがいかなるものよりも、さらにすぐれた方であることを示して、(ユダヤ教から離れなさいとは言わないで)しっかりと、キリスト信仰に立つよう勧めています。

 

●1節.だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。

 

著者はこの手紙の読者に対し「天の召しにあずかっている」と言っています。

 

わたしたちは、この地上に住んでいますから「天の召しにあずかっている」のです。

 

 

それにもかかわらず、地上のことばかりを考えて、天がいかに栄光に富んでいるかを考えないで、毎日を過ごしています。キリストの民も同じです。

 

ですから、「天の召しにあずかっている」現実をよく考えなさいということでしょう。

 

「公に言い表している使者」ですが、信仰は、心の中で信じるだけでなく、口で公に言い表すものなのです。

 

「公に言い表す」は告白(同意する)することですが、神が言われていることに同意することが告白なのでしょう。

 

イエスが大祭司とあるのは、2章17節を参照してください。

 

イエスは、昔、使徒として、死なれ、よみがえられ、天に昇られましたが、今は、大祭司として、わたしたちのために、執り成しをしておられるということでしょう。

 

イエスが大祭司ですから、御霊を賜ったキリストの民は祭祀です。

 

●2節.モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。

 

モーセは、ユダヤ教にとって支柱となる重要人物です。

 

神はモーセを立てて、神の民であるイスラエルを約束の地まで導かれました。

 

彼の働きによって、初めて神の言葉、律法を示されました。

 

イスラエル民族の土台はモーセ律法です。

 

モーセは、旧約聖書の預言者の中でももっとも偉大な預言者となりました。

 

「神の家全体の中で忠実」ですが、モーセの特徴は、神の家であるイスラエル共同体のために「忠実」であったことです。

 

モーセが神に選ばれたのは、すぐれていたからとか、偉大であったからではなく、「神の家全体の中で忠実」であったから、すなわち、イスラエルの民に対し、どのような時にも神を示し、神の民として導くことに忠実であったのです。

 

●3節.家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。

 

モーセもイエスも神に忠実でしたが、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふわさしいとされました。

 

その理由を、「家を建てる人」と「家そのもの」のたとえを用いて、「家を建てる人」であるイエスの方が、家そのものであるモーセより尊ばれるとします。

 

もちろん、この家とは神の家、イスラエル(ひいてはキリストの民)のことです。

 

●4節.どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。

 

そして、著者は、万物を造られたのは神であるとして、モーセもその被造物(イスラエル共同体も)の一つにあるとします。

 

そして、イエスはその家を建てた方ご自身に忠実な大祭司ですから、家を建てた者が家自体よりも尊ばれるように、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるにふさわしい方であるということでしょう。

 

●5節.さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが、モーセは、僕として忠実に「将来語られるはずのこと」を証ししました。

 

そして、「仕える者として神の家全体の中で忠実」でしたが、キリストはその家の相続人である息子として、家の上に立つ方です。

 

したがって、あの偉大なモーセに較べても、 キリストであるイエスは、遙かに優る方であると強調しているのでしょう。

 

●6節.キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。

 

モーセは(神の家に)「仕える者」ですが、キリストは神の御子として、神の家を治められるのです。

 

そして、「確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、」というのは、(キリストの民が、)キリストについて、恥じ入ることなく、「確信と希望に満ちた誇りを持ち続けるならば」、(イスラエルの民は神に背き自分勝手な道を歩み始めたので)わたしたちキリストの民こそ神の家なのだということでしょう。

 

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