救いの創始者(2章)
聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙2章5節から18節です。
●5節.神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。
「来るべき世界」を「天使たちに従わせ」なかったのならば、誰に従わせたのかですが、それは御子です。
「来るべき世界」は、「来るべき世」のことですから、神の救済と栄光が完全に実現する終末の事態を指しているのでしょう。
次節以降で、「来るべき世界を天使たちに従わせなかった」のは、御子が天使に優ることが、論じられています。
それを論証するために著者は、御子が人間となられた意義を論じ、人間となられた御子こそが「救いの創始者」であり、大祭司となるにふさわしい方であるとし、「祭司キリスト」へと導きます。
●6節.ある個所で、次のようにはっきり証しされています。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。
●7節.あなたは彼を天使たちよりも、/わずかの間、低い者とされたが、/栄光と栄誉の冠を授け、
この箇所は、詩編8編3節、5節から7節からの引用でしょう。
人間がいかに神のみこころに留められた存在であるかを語り、この自然界における人間の地位をうたう、人間賛歌です。
わたしたちは天地万物を見て、それを美しく思い、いかにすばらしいかを知り、そのあまりに深く大きく神秘的な存在を覚え、感嘆します。
しかし、それと反対に自分はこんなにちっぽけな存在であるのにもかかわらず、なぜ、神はこのような者に御心を留めておられるのか、と言っているのです。
著者はそれを、「わずかの間」天使たちよりも低いものとされ人間の姿を取られた御子が、地上のしばらくの間の苦難の後、高く天に引き上げられて栄光の座に着かれ、万物を支配する方となられた(フィリピ2章6節から11節)ことを預言する神の言葉として引用しています。
●8節.すべてのものを、その足の下に従わせられました。」「すべてのものを彼に従わせられた」と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。
神は御子キリストをもって、「すべてのものを彼に従わせられた」はずですが、「しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。」と言っています。
これは、もともとこの世は、アダムが悪魔に唆されて神の命令を聞かないで罪を犯し、人間は悪魔の支配下に陥りましたが、死からの復活によってキリストは悪魔に勝利し、悪魔を従わせられました。
しかし、悪魔はいまだに「世の君」とも呼ばれ、神に不従順な者たちのうちに働いて世を惑わしています。
●9節.ただ、「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。
「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスというのは、おそらく、イエスが人となられたことを指しているのでしょう。
この手紙で初めて、イエスの名が出てきました。
すなわち、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピの信徒への手紙/2章8節)ということです。
「死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」というのは、イエスは、十字架の死の苦しみを味わられたので、栄光と誉れと冠をお受けになったということでしょう。
キリストの十字架における死は、「神の恵み」なのです。
すなわち、イエスが、すべての人間の罪のために、代わりに死んでくださったところに、神の大いなる恵みがあるということでしょう。
わたしたちが受けなければいけない罪の結果の裁き(死)を、イエスが代わりに受けられたのです。
●10節.というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。
神であられる方が人となり十字架刑で殺された。それは、人間のもっとも陰惨な部分、醜い部分の現われでした。
では、なぜそのようなことを神は許されたのか。
それは、「多くの子たち(人間)を栄光(救い)に導く」ためでした。そのために「彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされた」のです。
この「救いの創造者」とは、救いの創始者とうことでしょう。
その福音の先駆者であるイエスは、様々な苦しみに会いましたが、復活によって完全な者とされたのです。それが神の御心だということでしょう。
●11節.事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
「人を聖なる者となさる方」とはイエスのことで、「聖なる者とされる人たち」は、わたしたち人間です。
「すべて一つの源」というのは、イエスも人間も源は同じ、すなわち、イエスは人となられ、わたしたちと同じアダムの子孫となられたので、アダムという源において一つなのです。
それで、「イエスは彼らを兄弟と呼ぶこと」にされたのです。
●12節.「わたしは、あなたの名を/わたしの兄弟たちに知らせ、/集会の中であなたを賛美します」と言い
●13節.また、/「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、/「ここに、わたしと、/神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。
12節と13節の聖書引用箇所を調べると、12節は詩編22編23節から、13節は、イザヤ書8章17節と18節ということですが、13節についてはそのまま引用するのではなく、著者独特の引用をしています。
いずれにしてもこれらの引用は、「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことにされた」を補強するためなのでしょう。
●14節.ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、
●15節.死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
イエスは、御自分の死によって、悪魔を滅ぼし、罪と死の奴隷状態から解放してくださったことが繰り返されています。
人となられたわたしたちの兄弟である御子イエスが、わたしたち人間のためになしてくださった究極の出来事は、「すべての人のために死んでくださった」あの十字架の出来事です。
●16節.確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。
「イエスは天使たちを助けず、」(16節)というのは、聖書によれば、悪魔は神に背いた天使ですが、同じように人間も神に背きました。
人間と天使の違いは、悪魔となった元天使は、自分が神になりたいという理由で神に背いたのですが、人間は悪魔に唆されて神に背いたということでしょう。イエスは同じ神に背いた存在でも、人間を助けられたのです。
同じ罪を犯すのでも、だまされて罪を犯すのと悪意があって、確信犯として罪を犯すのとでは大きな違いがあるのです。唆されて罪を犯した場合は、まだ救われる余地があるということでしょう。
唆された者は、何が正しいかがわかれば悔い改めますが、本質的に悪である者は、何が正しいかもわからないので、悔い改める余地はないのです。
「アブラハムの子孫」(16節)ですが、キリストに結ばれた者は、すべてアブラハムの子孫です。いや、信仰の子孫です。アブラハムの信仰は、イスラエルの子孫からキリストの民に引き継がれたのです。
●17節.それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。
著者は、再びイエスが、わたしたちと同じになられたことを話しています。それは、「神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司」になるためであるとしています。
そして、「すべての点で兄弟たちと同じように」されたのは、「民の罪を償うため」としています。
大祭司は、年に一度、至聖所の中に入って、契約の箱の贖いの蓋の上に血をふりかけて、イスラエルの民の罪のなだめを行ないました。
イエスは、すべての人々の罪を贖うために、ご自分がそのなだめの供え物となられたのです。
ただし、同じなだめの供え物でも、その効果は、大祭司の場合は一次的であり、イエスの場合は永遠、絶対です。
●18節.事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
イエスは、罪は犯されなかったが、悪魔の誘惑はお受けになりました。
そして、人間と同じように肉体を持つゆえの弱さを持っておられました。それゆえ、わたしたち人間と同じように「(誘惑)試練を受けて苦しまれた」ので、イエスはわたしたちのことをすべてご存じなのです。
このようにイエスに知られていないものは何一つありません。
だから、イエスはわたしたちを罪と死の奴隷状態から、助けることができるのです。
« 大いなる救い(2章) | トップページ | イエスはモーセに優る(3章) »
「ヘブライ人への手紙を読む」カテゴリの記事
- 神に喜ばれる奉仕(13章)(2019.11.09)
- キリスト者にふさわしい生活の勧告(12章)(2019.11.09)
- 主による鍛錬(12章)(2019.11.05)
- 信仰(2)(11章)(2019.11.03)
- 信仰(1)(11章)(2019.11.03)
コメント