御子キリストによる創造と和解(1章)
聖書の箇所は、コロサイの信徒への手紙1章9節から23節です。
この手紙ではパウロのように終末的視点から現在を見るのではなく、「神の言葉の真の理解を追究することが信仰生活の主要目標になっているようです。
このような変化は、パウロの救済史的な視点がヘレニズム世界の影響を受けて、霊的現実の認識を重視する宗教に移行してきたのではと見受けられます。
●9節.こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、
●10節.すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。
●11節.そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、
●12節.光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。
著者はここでコロサイの信徒のために祈り願っていると言っています。
その祈りと願いは三つです。
すなわち、「神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。 」(9節。10節)です。
三つに分割でします。
一つは「神の御心を十分悟り、」です。
次に「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。」です。
最後に「どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、・・御父に感謝する」ことです。
最初の「神の御心を十分悟り、」は、聖書を研究して教理を知り、神学を知るということではなく、「“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、」神の御心を知りなさいと言っていっています。
神の言葉を理屈ではなく、霊的に理解しなさいということでしょう。
このように書くと霊的理解とはどういうことかと問われそうですが、簡単に言うと、わたしたち人間に出来ることは、神の言葉である聖書を読むときは、内なる御霊に問いかけながらそこに書かれている真理を読み取ろうとする姿勢が必要だということでしょうか。
次の「・・あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。」ですが、それは「霊によるあらゆる知恵と理解」に満たされると、キリストの愛に満たされ、その愛に駆り立てられて、主にある善い行ないをしたいと強く願うようになります。
そのように生きることが、「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩」むことになるのでしょう。
このように、主に従って歩むことがわたしたち被造物の最大の喜びです。
最後の「根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、・・御父に感謝する」とは、天に希望を置いてこの世を生きる者は、この世だけを見て生きる者と価値観が全く違いますから、摩擦があり、試練にあい忍耐が試されます。
しかし、神は、その患難に耐えることができる力を与えてくださいます。
その苦しみと忍耐によって聖なる者たちの相続分に与れるので、わたしたちは、その苦しみの中にあって、父なる神に感謝をささげることができるということでしょう。
●13節.御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。
●14節.わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。
12節に「御父に感謝するように。」とありますが、ここではその御父がどのような救いを与えて下さっているのかを書いています。
それは、わたしたちを「闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して」(13節)下さったことです。
「闇の力」というのは、この世界(コスモス)が、悪魔と悪霊に支配されている世界で、その諸々の諸霊は人間を暗闇(不幸や悲惨や絶望)の中に閉じこめる霊的な支配力だという認識です。
父なる神は、福音によって信じる者をこの「闇の力(悪魔と悪霊の支配)から救い出して(解放して)」、「愛する御子の支配下に移して」下さったのです。
そして、この御子によってわたしたちは「贖い、すなわち罪の赦しを得ている」のです。
「罪の赦しを得ている」としていますから、悪魔からキリストへの支配の移行はすでに実現したことで、過去形です。
なお、ここでは罪は複数形だと言うことですから、パウロが罪を語る時は単数形(神への離反)でしたから違います。
ここは複数形ですから、原罪があって、その結果起こる様々な罪ということでしょう。
●15節.御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。
「御子は、見えない神の姿」ですから、御子キリストは神ご自身なのです。
御子キリストは神が人として現われた姿なのです。
ヘブライ人への手紙1章1節から3節「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」とある通りです。
神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。
御子は、神の栄光の反映で、神の本質の完全な現れで、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます。
そして、今は人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」。
「すべてのものが造られる前に生まれた方」というのは、解説では、これは文字通り、物理的に父なる神から赤ん坊として生まれたということではなく、父なる神は万物の主であられるように、御子も万物の主で根源であるという意味にとるべきだと言うことです。
旧約聖書によく出てくる「長子」という言葉も、必ずしも先に生まれたことを表すのではなく、第一の者であることを指し示していると言うことです。
●16節.天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。
御子が万物の創造主であると明確に宣言しています。
パウロの書簡には見られません。
御子は、天地を創造し、また目に見えない天使らも創造されました。
そして、それらは御子の「ために」造られたのです。
ここで著者は、天地万物は、他の何の目的のためでもなく、ただ御子のために造られたと言っているのです。
ということは、この方は被造物ではなく、万物よりも先に存在し、万物はその方の中で、その方により、造られた目的に沿って生きるように創造されたことになります。
なお、「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも」とか「王座も主権も、支配も権勢も」というのは、当時この見える世界も見えない世界も含めて、宇宙を支配するのは闇の力、すなわち、悪魔とか悪霊と考えられていましたのでこのような表現になったのでしょう。
そう、この手紙の著者がそのように宣言しているのです。
この時代のキリスト信仰の姿が浮か上がります。
●17節.御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。
天地万物は、御子によって御子のために造られ、御子によって支えられているのです。
天地万物は、造られて、その後、成り行き任せにされているわけではないのです。
人間社会の悲惨な現状は、全て御子はご存知なのです。
それでもあえて放置されているのですから、そこに何らかの意味があるのでしょう。
この世の現実が、どんなに悲惨でも見捨てられていないのです。
●18節.また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。
「御子はその体である教会の頭」ですが、この教会というのは現在あるような制度的な教会ではなく、エクレシアですから、キリストに結ばれた者の集会、あるいはその共同体のことでしょう。
「御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方」というのは、単に、御子は初めに復活されたと言っているだけではなく、キリストに結ばれた者も、キリストに倣って死者の中から復活をすると言っているのでしょう。
だから「すべてのことにおいて第一の者」なのです。
●19節.神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、
●20節.その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
19節を読むと、御子は万物の創造者であるばかりでなく、父なる神の体現者なのです。
そして、御子は父なる神の体現者であるだけでなく、神は「万物をただ御子によって、御自分と和解」させられたのです。
万物は、アダムが悪魔に唆され神から離反し、罪を犯したときから、アダムの子孫である人間は、悪魔の支配下の中に入ったのです。
しかし、キリストが十字架上で血を流され、過去・現在・未来のすべての人間の神からの離反という罪を赦されたのです。
この世界は時間軸(歴史)を歩む世界ですから、実際に万物が神との関係において、神の御心のように回復するのは、キリストが再び来られるときです。
18節の「すべてのことにおいて第一の者」という表現は、「死者の中から最初に生まれた方」(18節)と、先の「すべてのものが造られる前に生まれた方」(15節)とに対応しているのでしょう。
18節はキリストの復活を指し、15節は万物の創造の根源あることを指しているのでしょう。
19節の「満ちあふれるもの」というのは、神の御心が万物との和解であることを言っているのでしょう。
その神の御心が宿る御子キリスト(19節)において、すなわち、十字架の死によって万物との和解が成し遂げられたのです。
以上15節から20節はまさにキリスト賛歌です。
この時代のキリストの共同体の信仰が窺われます。
パウロが書いたフィリピ書の2章6節から11節にもキリスト賛歌がありますが、その違いは明らかです。
フィリピ書のキリスト賛歌は、キリストの受難と復活という救済史的出来事に集中していますが、本書の賛歌はそれだけでなく、創造とか存在の根源というような宇宙論的なキリストの姿を語っているところに違いがあります。
即ち、前半17節までは、万物創造と御子の関係、万物存在の根源としての御子の意義を語っています。
後半18節から20節までは、この方(御子キリスト)は「死者の中から最初に生まれた方」として、教会(エクレーシア)をキリストの体として、キリストは「その体の頭」であるとうたっています。
キリストは、万物創造の秩序においてだけでなく、教会(エクレーシア)を担い手とする救済の秩序でも「第一人者」であることがうたわれます。
もちろん、このエクレーシアと言うのは、現在のキリスト教会のような制度的教会ということではなく、キリストに結ばれた者の集会というイメージです。
●21節.あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。
●22節.しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。
「以前は」(21節)と救いに至るまでの状態と、「しかし今や」(22節)と、神の和解により与えられた救いの事実とが対比されています。
●23節.ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。
「福音の希望」というのは、キリスト信仰によって得られた神の民としての今の恵まれた状態を指し、それは、「揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、・・離れてはなりません。」ですから、福音の希望(キリスト信仰に)にとどまるのが22節の「聖なる者」の条件と言うことでしょう。
「福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、」は、福音の普遍性を言っていて、著者は、その普遍的な福音に仕える者とされたと改めて強調しています。
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