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2019年9月 7日 (土)

キリストに結ばれた生活(2章)

聖書の箇所は、コロサイの信徒への手紙2章6節から19節です。

 

●6節.あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。

 

●7節.キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。

 

「キリストを悟る」(2節)とは、頭の中の知識の問題ではなく、自己の全存在をもって体験的に認識することですから、そのことを「キリストに結ばれて歩みなさい。」と表現しているのでしょう。

 

具体的には、「キリストに根を下ろして造り上げられ、」ですから、自分が教えられたところのキリストの基本的な教え(最初の正しい教え)の中に留まりその教えを根として、すなわち「教えられたとおりの信仰をしっかり守って、」(そうでないと、別の教えとか行ないを取り入れてしまう事になるから、)成長していかなければならないと言うことでしょう。

 

その結果、「あふれるばかりに感謝しなさい」となります。

 

このあふれるばかりの感謝の生活が、「キリストの基本的な教えの中に留まりその教えを根として、すなわち「教えられたとおりの信仰をしっかり守って、」歩むことによってはじめて結ばれる実ということでしょう。

 

 

すなわち、キリストの御霊は最初の正しい教えの上に働かれるということでしょう。

 

ですから、間違った教えの上には働かれないので、「あふれるばかりの感謝の生活」には恵まれません。

 

簡単にいえば、キリストを受け入れて信じたら、その信じた通りに歩みなさい。

 

信じているその信仰をさらに深めなさい、そうすれば、溢れるばかりの感謝の生活が御霊に働きによって得られる、ということでしょう。

 

●8節.人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。

 

手紙の著者は信仰によって歩む基本的な事を語った後、集会で見られる誤った教えを警戒するように、と言ってこの手紙の本題に入ります。

 

「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事」と呼んでいる教えをここでは「世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。」としています。

 

この世を支配する霊はキリストと対比する存在です。

 

世を支配する霊というのは複数形だと言うことですから、宇宙を構成する各層の霊的存在を指しているのでしょう。

 

それは悪魔とか悪霊を指しているのでしょう。

 

宇宙(コスモス)は地を底辺とする多層の霊界から成り、その各層を支配する霊的存在を「支配」とか「権勢」と呼んでいたそうです。

 

それらの諸霊を礼拝しているのが異教の各宗教だと言うことでしょう。

 

キリストにしっかりと結びついて生きる限り、キリストの御霊に満たされ導かれているので、もはやそのような「世の諸々の霊」から出る教えは必要ではなく、それに囚われることはないとされます。

 

●9節.キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、

 

キリストは「満ちあふれる神性」が宿る方と言い表されています。

 

「満ちあふれる」は、グノーシス主義の重要な用語だと解説にはありましたが、詳しいことは省略します。

 

このように表現した目的は、「世の諸々の霊」から出る間違った教えに惑わされることなく、しっかりとキリストだけに結びついて生きるように求めるためでしょう。

 

御霊である復活したキリストは神であって、それも肉のうちに宿られた神です。

 

このキリストがわたしたちの中に住んでくださっているのですから、なにゆえ、人の哲学や言い伝えに知恵や知識を求めるのですか、ということでしょうか。

 

●10節.あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。

 

キリストは「満ちあふれる神性」が宿る方として、「すべての支配と権勢の頭」であるとされます。

 

「すべての支配と権勢の頭」というのは、キリストはこの「諸霊が支配」する宇宙(コスモス)全体の統合者であることを指しているのでしょう。

 

著者は何度も何度もキリストが頭であることを繰り返しています。

 

キリストが万物の創造においても、和解においても、死者の復活においてもすべての中で第一の方であり、そして、すべての知恵と知識の源であり、そしてここでは、支配と権威においてもかしらであると述べています。

 

●11節.あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、

 

●12節.洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。

 

11節は、ユダヤ人が生後8日目に受ける割礼(この儀式がユダヤ人であることを表し、アブラハムの子孫としての契約のしるしになる)に対比して、キリストの割礼を、「手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼」という表現で語ります。

 

キリストの割礼とは、「洗礼」(水による洗礼)が象徴するように、「キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活」の真理を言い、それは神の力を信じる故であるとします。

 

すなわち、ユダヤ教の割礼は「手による割礼」であり、体の一部を切り開くだけですが、「キリストの割礼」は人の手によらず神の霊によって、神に背く本性をもった古い存在全体を脱ぎ捨てることです(ローマ2章29節)。

 

このような割礼を受けている以上、もう「手による割礼」は必要でなくなります。

 

キリスト者は水による洗礼(水の中に浸されることは埋葬を象徴)を受けたときに、キリストと一緒に死んで埋葬され、同時に「キリストを死者の中から復活させた神の力の信仰によって」キリストと共に復活させられたのです。

 

その埋葬と復活は、あくまで霊的現実を象徴する儀式です。

 

なお、「キリストと共に復活させられた」は過去形ですが、パウロは復活に関してはいつも未来形です。

 

すなわち、パウロにおいて「復活」は終末時の死者の復活を指す用語だと言うことです。

 

この手紙が過去形ということは、洗礼によりキリストにあって歩むようになった「新しい命に生きる」ことを指しているからでしょう。だから過去形なのです。

 

●13節.肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、

 

●14節.規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。

 

この13節と14節において、著者は再度キリストにおける救いを語っています。

 

「肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいた」は、肉に割礼を受けずとは、生まれながらの本性のままに生きていたことで、「死んでいた」は、神から遠く離れていたことを指すのでしょう。

 

そして、キリストに属する者となることによって「生かして下さった」事実が確認されます。

 

そのことをキリストの十字架と復活という出来事の中に成し遂げられた神の働きとして語られているのでしょう。

 

「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し(キリストの十字架を指し)、「取り除いて」下さったと言うことでしょう。

 

キリストの十字架による罪の赦しが、訴える証書そのものを抹消する神の行為と表現されているのでしょう。

 

●15節.そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。

 

「キリストの勝利の列」は、復活によって実現した凱旋行進のイメージです。

 

「諸々の支配と権勢」(8節)に対するキリストの勝利として描かれているのです。

 

すなわち、「武装を解除し」ですから、(8節の世を支配する霊の)諸々の支配と権勢を剥ぎ取り、「さらしもの」ですから、裸にしてさらしものにされたのです。

 

●16節.だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。

 

●17節.これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。

 

旧約聖書には律法があり、そこには、食物規定(食べてもよいきよい動物と、汚れた動物の区別。レビ記11章参照)がありました。

 

また、一年に守り行なう例祭として、過越の祭り、五旬節、仮庵の祭りなどがありました。

 

そして新月の祭りと、安息日がありました。

 

安息日は、神がとくに強調されて、守り行なうように命じられた大切な日でありました。けれども、それらは「やがて来るものの影にすぎず、実体はキリスト」であると言っているのです。

 

偽りの教えを説く教師たちは、旧約聖書の律法の書に書かれた、食べ物のことととか祭りや新月や安息日の規定を守るように要求しますが、それらは、「来るべきもの(やがて人間が体得することになる霊的現実)の影に過ぎない」とされます。

 

そのような食物規定や祭儀が要求することは、その影が指し示していた実体(霊的現実)であるキリストにおいてすべて成就・実現したのですから、キリストに属する者はそのような要求に拘束されることはないのです。

 

本体が来た以上、影は意味を失います。

 

●18節.偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、

 

●19節.頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。

 

ここでは偽りの教えを奉じる者たちのことを、「偽りの謙遜と天使礼拝にふける者」と呼んでいます。

 

「偽りの謙遜」は自己卑下とも書かれていますが、断食や苦行(人の目に見える方法)による宗教的自己卑下を指しているのではということです。

 

信仰は本来他人と比べたり、自慢するように他人に見せびらかすものではありません。

 

「天使礼拝」とは天使を礼拝することか、天使の礼拝に参加することか分かりませんが、おそらく前者のことではということです。

 

そのような特殊な宗教的行い(幻を見たとか、天使がやって来て神の御告げを教えたというのも入るのでしょう)に没入して、そこでの自己の体験を絶対化して誇る者は、キリスト者にとって本来の「頭であるキリストにしっかりと付いていない」からだと批判しているのです。

 

頭であるキリストに結ばれた者は、キリストによって賜る愛とか知恵で成長するのですが、この成長が人体の比喩で、「節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ」と語られ、それを「神に育てられて成長」としているのでしょう。

 

 

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