神への感謝(1章)
聖書の箇所は、コロサイの信徒への手紙 1章3節から8節です。
●3節.わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。
●4節.あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。
「わたしたちは、」と言うのは、この手紙の著者で、著者は、「聞いたからです。」ですから、福音がコロサイの町にまで広がっていることを聞いて知っていたから、彼らのことを祈りの中でいつも神に感謝していました。
感謝しているのは、キリスト・イエス に対する信仰と、すべての「聖なる者たち」に対する愛を彼らが抱いていることに対してでしょう。
●5節.それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。
著者はここでコロサイの信徒が持っている「信仰と、すべての「聖なる者たち」に対する愛」は「天に蓄えられた希望」に基づくものだと言っています。
パウロの言葉、コリントの信徒への手紙第一13章13節の「信仰と希望と愛」のことでしょう。
「天に蓄えられた希望」は、キリストの福音そのものです。
この望みを抱いていなければ、信仰もまた愛も本物でなくなってしまいます。
言い換えれば、福音を受け入れて神のみ心を行うことによって得られる富は、天に蓄えられています。
それは、「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(ペトロの手紙第一1章4節)とある通りです。
キリストに結ばれた者は、天に望みを置いてこの世を生きます。
天を忘れるとわたしたちは地上のもので代用しようとします。
それが人間の哲学であったり、伝統やしきたりであったり、神秘体験や禁欲生活であったりするのでしょう。
なお、パウロと違うのは、パウロは希望を、信仰と愛と並ぶ御霊の表れの一つとしていますが、この手紙では、希望は信仰と愛の源泉とされていることです。パウロのように、その三つを並行して扱っていないのです。
そして、キリストの福音という「希望」は、現に天に蓄えられているのですから、将来に関する待望ではないのです。
●6節.あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。
●7節.あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者であり、
●8節.また、“霊”に基づくあなたがたの愛を知らせてくれた人です。
小アジヤにおける福音は、真理の言葉となってエフェソの町から一気に広まって行ったようです。
「世界中至るところで・・実を結んで成長」(6節)ですから、他のヘレニズム世界においても、勢いよく福音が真理の言葉として広まって成長しています。
著者は、その原因が、「神の恵みを聞いて真に悟った日から」(6節)としています。
福音が実を結びながら広まったのは、誰かの人間的な努力とかテクニックではなく神の恵みを真に理解したことによると言っているのです。
いわゆる、御霊の働きの結果だと言っているのです。
ということは、前節にある「天に蓄えられている希望」という霊的資産も、人間の努力ではなく福音という真理の言葉によってもたらされたものであると言うことでしょう。
イエス・キリストの出来事を告知する福音の言葉が、「真理の言葉」となって、ヘレニズム世界に広がっているのです。
ここ7節で、コロサイの集会がエパフラスという人物の働きによって形成された集会であることが分かります
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