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2019年9月 1日 (日)

前置き(コロサイの信徒への手紙

この手紙は、パウロ系集会の中心地となったアジア州で生み出されたとされるエフェソ書と同様の「パウロの名による書簡」と言われています。

 

この手紙で気になるのは、ほかのパウロの書簡では、自分を多くの使徒の中の一人としているのですが、この手紙では、パウロをほとんど唯一の使徒として扱っているところです。

 

ですから、この手紙はパウロの没後、パウロの忠実な後継者が、パウロから受け継いだ信仰を確立するために、パウロの名によって(パウロの権威を後ろ盾にして)書いた文書ではないかということです。

 

この手紙の中心議題は、「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。

 

それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。」(2章8節)ではないでしょうか。

 

 

コロサイの集会に「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事」の教えが出てきたので、その誤りを正すために「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」(コロサイ書2章6・7節)、と勧告している手紙だと言うことです。

 

成立年代は、紀元80年代と言われています。

 

書かれた場所は、エフェソを中心とするパウロ系の共同体ではと言うことです。

 

この手紙のパウロの忠実な後継者である著者のキリストとパウロのキリストの違いの中で著しい点は、パウロのキリストの働きは、旧約聖書の救済史的なキリスト、すなわち、終末を目指す時間軸上(歴史上)での救済の出来事ですが、この手紙は1章15節から17節にあるように、すべての存在の根源、救済と完成をもたらす救済者となっています。一歩前進です。

 

また、キリストに属する者は、キリストと共に十字架につけられて死んだだけではなく、すでにキリストと共に復活した者とされています(2章12節から13節)。

 

キリストと共に復活することを将来の希望として語るパウロと明らかに違っています。

 

これらの違いは、キリストの再臨の遅延が大きくかかわっているのではないでしょうか。

 

明日にでも再臨がおこるとして、差し迫った状態でイスラエルのキリスト共同体は財産を処分し持ちよって共同生活を始めましたが、再臨はなかなか起こらないので、そのことへの対処が必要となり、違ってきたのではと思うのです。

 

また、キリストの十字架の出来事の意義を語る言葉も、「和解」という表現はパウロとコロサイ書とも同じですが、パウロがよく用いる「義とする」の「義」という表現はコロサイ書にはなく、パウロにはなかった「罪の赦し」という表現がよく用いられるようになっています。

 

そして、パウロが苦闘したキリストと律法の関係については全く触れていません。「律法」という用語さえ出てきません。

 

義とか律法に関心がなく、その用語すら出てこないということは、この手紙の著者がユダヤ人ではなく異邦人であることを指し示しているのでしょう。もちろん、パウロ自身でもありません。

 

パウロの時代は、キリスト者はユダヤ教から脱皮しょうとする過渡期でしたが、この手紙の時代には、キリスト者はユダヤ教から完全に脱皮し、そういう問題は過去のことになっていたのでしょう。

 

ということは、この手紙はパウロ以後のキリストの福音の展開について重要な位置を占めると言えるのではないでしょうか。

 

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