日々新たにされて(2章)
聖書の箇所は、コロサイの信徒への手紙2章20節から3章17節です。
●20節.あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、
●21節.「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。
キリストに属する者は「キリストと共に死んで世を支配する諸霊」の支配から離脱しているのであるから、その「世の諸々の霊」から出る様々な(宗教的)戒律には縛られていないことを「何の関係もない」と強調しているのでしょう。
とすると、パウロと少し違いますね。
パウロにとって、キリストと共に死ぬことは罪に対して死ぬことでしたが、ここでは、キリストと共に死ぬことは諸霊が支配するこの世(コスモス)に対して死ぬことです。
「手をつけるな。味わうな。触れるな」という戒律は何を指すのでしょうか。
おそらく「手をつけるな」は性交の禁止、「味わうな」は断食とか特定の食物の禁止、「触れるな」は何か特定の事物への接触の禁止を指しているのではないかと考えられます。
●22節.これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。
●23節.これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです。
このような戒律はみな、「使えば無くなってしまうもの、」ですから、神から出たものではなく、人間の浅はかな知恵から出たものである「人の規則や教え」ですから、ある特定の状況では有益であるとしても、人生全般には「何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけ」なのです。
なんの根拠もない「人の規則や教え」(宗教的な行事)である「独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行」等の戒律を守ることに励む者は、内心ではその姿を人に見せびらかして、敬虔な人、信心深い人、知恵ある人という評判を得ようとしているが、それは人間の宗教性を満足させるだけで、キリストによって得られる神の知恵から見れば何の価値もないものだと批判します。
厳しい言葉ですが、当時はそういう風潮が強かったのでしょう。
宗教的行事が何の根拠もない見せかけの物ならば、そのことを誇りとする肉の思い、すなわち、自己満足に陥る場合が多いと思います。
自己満足は思い上がりですから謙虚と正反対です。
キリストの中にあって歩み、キリストに根ざし、建てられ、信仰を堅くし、キリストのうちに留まれば、聖霊の働きが始まり自然と感謝があふれでて(思いが、行いが御心に沿っているという意味でそのような祝福が得られる)、本当の価値ある歩みができるということでしょう。
●3章1節.さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
著者は、前章ではキリストの福音の提示し、偽りの教えを警戒するように説きましたが、ここからは実践的な勧告に入ります。
ここでは、「キリストと共に復活した」ことを根拠にして、新しい生き方を説きます。
なお、パウロが信徒の復活を語るときはいつも終わりの日の復活を指して未来形を用いていますが、この手紙の著者は「共に復活させられた」と過去形を用いています。
これは、キリストにあって(知って)賜った新しい命(感謝があふれる)に生きるようになったことを指しているのでしょう。
だからこれはすでに起こった現実を指しているのでしょう。
●2節.上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないよう」というのは、キリストと共に復活した者としての歩みを語っているのでしょう。
キリストに結ばれた者が「上にあるものに心を留め、」るのは、そこにはキリストがおられるからです。
パウロは霊か肉に生きるかで語っていましたが、ここでは「上にあるもの(霊的なもの)」と「地上のもの(物質的なもの)」という言葉で対比しています。
●3節.あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
キリストに結ばれてキリストと共に死んだ者の命は、「キリストと共に神の中に隠されている」のですから、自分の命があるところに生きる、すなわち「上にあるものを志向して」生きるのが当然の事であるのです。
●4節.あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
前節に続いて、キリストに属する者はすでに新しい命を与えられていますが、その命は「キリストと共に神の内に隠されている」ので、今はその栄光を直接見ることはできません。
地上においては、 今はまだ人間としての弱さやはかなさの中に隠されていると言えます。
しかし、「あなたたちの命であるキリストが現れるとき、・・キリストと共に栄光の中に現れることになる(未来形)」とされます。
この未来形は、未来に実現するキリストの再臨という意味ではなく、御霊によって現に内に隠された形で存在する新しい命が外に顕現するという見方で終末的将来が語られているのではということです。
すなわち、パウロはキリストの再臨に軸足を置いて現在を語りましたが、この手紙は、現在の霊的現実を軸足として未来を語っているということでしょう。
●5節.だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
●6節.これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。
●7節.あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。
●8節.今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。
●9節.互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
●10節.造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。
●11節.そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。
ここ5節から11節は、「キリストと共に復活した」ことを根拠にして、以前と今を対照にして、以前とは違う新しい生き方をするように説いているのでしょう。
今までは「地上的なもの」、すなわち、「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲」(5節)に生きてきましたが、その中でも「貪欲は偶像礼拝」(5節)です。
7節の「以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。」というのは、以前はそのことを知らないまま神の怒りの下にあったことを意味しているのでしょう。
しかし今は、(キリストに属する者となり、キリストと共に復活して生きる者となったので)、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を身に着け」(9節・10節)るように求めています。
その脱ぎ捨てる「古い人」という衣服に付着する汚れとして、先にあげた「みだらな行い(性的退廃)、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲」(5節)に、「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」(8節)を付け加えています。
キリストにある者が「古い人」を脱ぎ捨てた後に着る「新しい人」は、「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、」ですから、キリストにある者は、創造された方、すなわち御子キリストの像にしたがってつねに新しくされていくと言うことでしょう。
パウロがよく「変容させる」(動詞)とか、キリスト者は御霊の働きによって「主と同じ姿に造りかえられていく」などと言っていましたが、同じことを言っているのでしょう。
11節では、「そこには、もはや、・・区別はありません。」ですから、そのような事態は、いかなる人間的な状況、すなわち、差別とか区別も妨げにならないと言っています。
●12節.あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
●13節.互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
ここでは、古い人に付着する悪徳を捨てた新しい人の生き方を語ります。
それは「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容(忍耐)を身に着けなさい。」です。
この憐みの心、慈しみの心とも言いますが最初に上げられています。
キリストに属する者は、神に愛されているのだから、その愛をもってそれらを身に着けるように求めているのでしょう。(ルカの福音書6章36節のイエスの言葉を参照。)
●14節.これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
●15節.また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。
「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。」は、前節までに上げた徳目を一つにまとめる原理として「愛」を身に着けるように求めているのでしょう。
もちろん、この愛はアガペーです。
すなわち、愛(アガペー)はすべての徳を一つに結び合わせて完成させる生命力なのです。
そして、15節では、キリストに属する者の交わりの原理を「キリストの平和」と表現しています。
解説には、キリストに属する者たちの集まりであるエクレーシアという「一つのからだ」を形成するように招かれたのも、人類の歴史の中に神との平和が隣人との平和の根底になっているような終末的な平和を実現するためであることに他ならないと言うことです。
そして、そのような平和を支える心の一つの面が「感謝の気持ち」(その根底には、神の愛とか恵みとか憐みなどがあるのです。)ですから「いつも感謝していなさい。」と勧告しているのでしょう。
何事においても、感謝の気持ちでいれば、争いや憎しみはなくなり、平和を保つことができます。
●16節.キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。
キリストに属する者の集まりであるエクレーシアの在り方が、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿る」ことを土台に形成されると説きます。
この「キリストの言葉」というのは広い意味で、イエスの一つ一つの語録ではなく、それらを含めて、キリストを告知する福音の言葉とか御霊によって体験された内なるキリストを告白する言葉など、言葉として言い表されたキリストご自身を指していると理解します。
キリストの言葉を交わりの中に豊かに宿らせることによって、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌」を歌うことが可能になります。
●17節.そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
そして締めくくりとして、「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」と勧告します。
この神に感謝しなさいというのは、言い換えると、神に栄光を帰する歩みをしなさいと言うことでしょう。
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