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2019年9月 5日 (木)

パウロに与えられた務め(1章)

聖書の箇所は、コロサイの信徒への手紙 1章24節から2章5節です。

 

●24節.今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。

 

このような表現から推察すると、この手紙の著者は、23節から引き続き、パウロの苦難とその活動を意義づけようとしているのでしょう。

 

すなわち、キリストの受難は人間の罪の贖いのためであり、そのためでは十分であるが、その贖いの救済を人々にもたらすための活動と、キリストの集会(エクレーシア)形成のための苦しみ、すなわち、そのことを「キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」と言っているのでしょう。

 

だから、決して、キリストが十字架の上で受けた苦しみが欠けていたということを言っているのではないのです。

 

●25節.神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。

 

 

「余すところなく伝える」というのは、キリストの事を言っているのでしょう。神の言葉を余すところなく使徒たちに伝えるという役目をキリストは神から委ねられたのでした。

 

●26節.世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。

 

キリストの民の集まりであるエクレーシアに神の言葉を明らかにすることがパウロの務めで、その神の言葉とは、「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされた」、ということでしょう。

 

秘められた計画ですから、それは奥義で、それを「エクレーシアに」明らかにすることをパウロは神から委託されているのです。

 

その奥義は27節でいっているように、パウロの異邦人伝道で、異邦人もまたユダヤ人と共同のキリストのワールドの相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかるようになった、ということでしょう。

 

●27節.この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。

 

「なたがたの内におられるキリスト、栄光の希望」とは、キリストはあなたがたにとって栄光の希望であり、その方が内におられると言っているのでしょう。
それは、神の御霊、聖霊がキリストに結ばれた者に内住されている現実を指しているのでしょう。

 

イスラエルの民でさえ、幕屋あるいは神殿に神がお住まいになるとし、神とは仲介者を通して交わるのでしたが、しかし、神と人間の隔ての幕は、キリストによって、神殿の垂れ幕が上から下に引き裂かれたことを象徴に、今や、わたしたちは大胆に、父なる神に近づくことができ、わたしたち自身が、神の御霊が宿るところの宮となったと言うことでしょう。

 

すなわち、その「秘められた計画」、すなわち奥義の中身はキリストであると言うことでしょう。

 

そして、このキリストこそあなたがた異邦人の「栄光の希望」で あるとされます。

 

この「希望」は、将来(キリストの再臨)だけの事ではなく、現に与っている救済の現実全体を指していると思います。

 

したがって、救済の栄光も現に御霊にあってキリストにある者に実現している神的な素晴らしさを指すのでしょう。

 

パウロが希望という場合は、キリストの再臨を指していましたので少し違いますね。パウロは将来の栄光を指し、ここでは現実を指しています。

 

●28節.このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。

 

●29節.このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。

 

ここで著者は、パウロの務めとして、このキリストを世界に宣べ伝え、「すべての人がキリストに結ばれて完全な者になるように」することこそ、使徒パウロの使命であることを改めて確認しています。

 

課題は、どれだけこのキリストを知っているかですが、しかし、「知恵を尽くしてすべての人を諭し、教え」るほどに、キリストについて語り尽くすことは大変なことでありますが、先に選ばれてキリストに結ばれた者のこの世での務めということでしょう。

 

●2章1節.わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。

 

「労苦して闘っている」というのは、表現として心にかけているとか骨を折っていると言う意味に近いのではないでしょうか。

 

なぜならば、パウロは、神の奥義であるキリストについて、面識のない人たちにも手紙などで知恵を尽くして、あの手この手で教えていました。

 

どのようにすれば、このキリストによってすべてのものが存在するかを知らせるために、主から知恵をいただきながらいろいろと考え労苦して闘いながら教えていたのです。

 

「ラオディキア」というのは、コロサイの町のすぐそばにある町だそうです。ラオデキヤの人たちにも、この手紙を読んでもらいたいと願っているのでしょう。

 

それは、コロサイだけではなくラオデキヤにも、2章8節で言っているような「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事」の教えが入り込んできていたからではないでしょうか。

 

●2節.それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。

 

パウロが「労苦して闘っている」のは、「この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。」としています。

 

「神の秘められた計画」ですから、神の奥義とは「キリストを悟る」ことだと再確認されています。

 

キリストを悟るのは「人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、」ですから、キリストに結ばれた者たちの交わりの中にあって初めて神に理解力を豊かに与えられてキリストを知る事が出来るのです。

 

自分だけで信仰を保っているとか、聖書だけを読んで理屈をこねているだけではだめなのです。目が痛いです。

 

キリスト者の交わりの中で、心を励まされ、愛によって結び合わされることが、キリストを悟るのに非常に大切なのですね。

 

●3節.知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。

 

「キリストの認識」こそ、パウロの教えの目的であるということになります。

 

「キリストの中にすべての知恵と知識の宝が隠されている」のですから、キリストを認識することは、「すべての知恵と知識」を得ることになります 。人間として完成するのに必要な「すべての知恵と知識」は、「キリストの認識」の中に見出されるのです。

 

もちろん、そこには毎日の生活に必要な知恵とか知識も入るのでしょう。

 

●4節.わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです。

 

●5節.わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。

 

3節の「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」というのは、「巧みな議論」に騙されてキリストから引き離されないためであるとしています。

 

「巧みな議論」というのは、人々を巧妙にだます教えや哲学、また慣習や伝統を指しているのでしょう。

 

それは集会の中においても、外においてもあることです。

 

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