古い生き方を捨てる(4章)
聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙4章17節から24節です。
著者はまずエクレシア(召された者の集まり)を構成する信徒に対して「御霊の一致」を追求すべきことを強調しました(4章1節から16節)。
ここではエクレシアの外に目を向けます。
エクレシアの外の世界は異邦人(ユダヤ人以外の諸国民)の世界です。
著者は、外の異邦人と比べてキリストの民の一員としての歩み方を説きます。
ただしここの異邦人は、非ユダヤ人全般を指すのではなく、エクレシアの交わりの外にいる人たち、すなわちキリスト教徒ではない「異教徒」という意味で用いられていると思います。
●17節.そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、
著者は、パウロの言葉で(実際にパウロはその様に言っていたのでしょう)勧告します。
それは、「異邦人と同じように歩んではなりません。」です。
そして、「彼らは愚かな考えに従って」歩んでいるとします。
ここで言う「愚かな考え」とは、将来の目的がなく、生きる指針がない状態のことを指しているのではと思われます。
●18節.知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。
神を知らない異邦人(神の子キリストを拒む「世」の人々)は、将来の目的が無いので、その「知性は暗くなり」ます。
そして、「無知とその心のかたくなさのため」神から遠く離れています。
だから彼らは、神については何も知らないのです。
頑なになって知ろうとしないから、キリストの福音が如何に道理にかなっているかも理解できないのです。
わたしの知り合いにもその様な人がたくさんいます。
神とか宗教とかを持ちだすと人の話を聞こうともしないで、拒否反応を示すのです。
「神の命」というのは、霊のことでしょう。
いまわたしたちが命と思っているのは、肉体のいのち、期限付きでこの世でしか生きられない命ですから、人間はそれだけでは(神とのつながりがないので御霊の命で支えられていないので)やがて滅びる運命にあります。
神と共に生きるためには、神から与えられる霊の命、永遠の命を得る必要があるのです。霊の命は、常に神のメンテナンスが必要なのでしょう。
つまり、エデンの園で神から離反し、交流が絶たれた状態が今も続いているのです。それが原罪です。
人は本来造られた目的である、神と共に生きる事が出来る状態に生まれ変わる必要があります。
それが神の創造の御計画です。
そのためには神の和解を受け入れて、霊の命に与る必要があるのです。
それを聖書では新しい人間の創造と言っています。
●19節.そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。
18節と19節で著者は、異邦人が彼らの中にある無知とその心のかたくなさの中に歩んでいる事実を書きます。
「無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。」というのは、人間は生まれ持った(神に対し)無知と心の頑なによって、神の御霊の命から隔てられているために、神の事柄に「無感覚」になっています。
神の事柄に無感覚とは、神の正義と裁きとか、神の慈愛とか赦しなど神との関わりを実感できないことを指すのでしょう。
つまり、知性だけではなく道徳的にも無感覚になるのです。
罪についても、やってはいけないと感じていても、(罪の意識に無感覚なので)そのことに真剣にならずに続けてやってしまう。
誰でもやってはいけないことはわかっているが、それを止めずに続けていると、しまいにはそのことに対し罪意識を感じなくなるのです。
好色に身をゆだねることも、あらゆる不潔な行ないをむさぼることもその延長線にあります。
肉の欲は、貪欲でとどまるところを知りません。
酩酊、貪欲、不品行は、これで満足だと言わせることができないのです。
人を決して満たすことはないのです。
そのことを指して「放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。」と言っているのでしょう。
そのような状態をパウロはローマ書1章に次のように書いています。
「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。」です(ローマ書1章24節)。
「それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、」(ローマ書1章26節)
彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」(ローマ書1章28節)
このようにパウロは、神を認めない異邦人を神が放縦に「引き渡した」とし、それが神の裁きであるとしたのです。
●20節.しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。
●21節.キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。
「異邦人」(エクレシアの外の世の人々)との対比で、しかし「あなたがた」は違うと強調しています。
そして、キリストにある者の姿として、「あなたたちはこのようにキリストを学んだのではありません。」と言っているのですが、この「キリストを学んだ」というのは、21節「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだ」のならば、という条件付きで、このように言っているのでしょう。
内容は福音の基本的な事、初期的な事でしょうね、
しかし、確かに言葉ではその様に教えられるのですが、本当の意味でキリストを知るためには、御霊によってキリストと合わせられ、キリストと共に生きることによってキリストを身につける必要があると思うのです。
パウロが、キリストを「着る」と表現している状態を言い換えれば、キリストの御霊を着るということでしょう。
●22節.だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、
●23節.心の底から新たにされて、
●24節.神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。
21節で「キリストを学んだ」後、「・・・・古い人を脱ぎ捨 て、・・・・新しい人を着なさい」(22節、24節)と続きます。
キリストを信じる者に求められている新しい生き方は、「イエスが真理の内にあるように」(21節)ですから、イエスにおいて事実そうであったように、ということでしょう。
著者はイエスの歩みをモデルにして、キリストに属する民に、古い人を脱ぎ捨て新しい人を着るように説いているのでしょう。
24節の「神にかたどって造られた新しい人」は、コリントの信徒への手紙二5章17節の「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」と同じ事を言っているのでしょう。
パウロは、キリストに属する者は、生まれながらの古い人間性(パウロは「肉」と呼んでいました)を脱ぎ捨て、御霊が内に創造してくださる主と同じ形の「新しい人」を身につけて、変容していくことが求められていると言っています。
わたしたちは自分の思いとか努力で変容することはできません。
神が創造してくださる「新しい人」を着ることができるだけなのです。
洗礼は、そのことを象徴しているのでしょう。
「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテヤ書3章27節)とある通りです。
キリストは終わりのアダム、終末時の新しい人間の原型ですね。
「古い人を脱ぎ捨て、・・神にかたどって造られた新しい人を身に着け」ると、わたしたちは、罪を犯さざるを得ないという罪の奴隷状態(罪に支配されている状態)から解放されて、「真理に基づいた正しく清い生活」を御霊によって送れるようになれるということでしょう。
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