キリストの体は一つ(2)(4章)
聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙4章1節から16節です。
二回に分けまして、(2)は11節から16節までとします。
●11節.そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。
4章8節の「人々に賜物を分け与えられた」を受けて、エクレシアに与えられた様々な賜物を「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師」とされたのですとします。
ここで上げられているエクレシアに与えられた様々な賜物は、コリントの信徒への手紙一12章12節から28節と較べると、「奇跡を行う者、病気を癒す者、異言を語る者」というような、いわゆる「カリスマ的」な霊能者が欠けていて、「使徒、預言者、宣教者、牧者、教師」というような役職的な働きだけになっています。
これは、パウロの時代とこの手紙が書かれた時代の時代背景が違っているからでしょう。
つまり、この時代は(80年ごろ)御霊の働きと共に、大きくなったエクレシア(キリストの共同体)の運営のために働きとして、使徒以下の役職が重要視されるようになり、このように列挙されたのではないでしょうか。
パウロは、異なった賜物が集会の一人ひとりに与えられていることを強調していましたが、ここでは役職的な働きをする人たちが「キリストの賜物」としてエクレシアに与えられていることを取り上げて強調しています。
その中で、「使徒と預言者」は霊的指導者としてパウロ書簡においてもたびたび出てきて、確立された指導層であったと思いますが、この手紙では、おそらく、今まで確立していなかった職務として「福音宣教者」とか「ある人を牧者、教師」などが出てきます。
「福音宣教者(あるいは福音伝道者)」は福音を外の人たちに宣べ伝える働きをする人、「牧者と教師」は集会内で信徒を指導する人たちを指すと考えられています。
牧者は、(羊飼いのイメージで)先頭に立って集会を指導する者(長老)、教師は聖書解釈や教理問答的な指導をする人たちのことでしょう。
最後に、そういう人たちが、「奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げて」(12節)ゆくのです。
大きくなったエクレシアを保つための組織を意識しているのでしょう。
●12節.こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、
●13節.ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。
11節に使徒、預言者、宣教者、牧者、教師たちがキリストの賜物としてエクレシアに与えられたことが書かれたていますが、ここではその目的が明示されています。
それは、「奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げ、・・神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで(充満するまで)」成長するためです。
聖霊の賜物を与えられてエクレシアにおいてこのような役職を担う人たちは、「聖なる者たち」です。
その「聖なる者たち」は、キリストの民を統制し、支配するためではなく、「奉仕の業に適した者」としてふさわしい者に整え、「キリストの体を造り上げ」るのを助けるためにその役に任じられているのだと思います。
「聖なる者たち」は、聖徒たちを助けるためにその役に任じられているのであって、キリストの民を支配するとか、自分の利益のために任じられているわけではありません。
13節の「信仰と知識」の知識ですが、これは、イエスが神の子キリストであるという信仰だけでなく、そのイエス・キリストがどのような意味で神の子であるのかという理解と認識においても一致することが求められていると言うことでしょう。
この知識の一致は「文字は殺し、御霊は生かす」ともいいなかなか難しいものがありますから、ここで取り上げません。
大切なのは、エクレシアを構成するキリストの民が、同じ御霊による同質性において一致することだと思うのです。
同質性があれば、それを表現する言葉が多少違っても、それはキリストの多様な豊かさを示す相違として受け入れることが出来て、共にキリストを賛美することもできるはずです。
「円熟した大人に成熟する」というのは、エクレシアの形成・成長を、人体の成長を比喩として語っているのでしょう。
わたしたちはいつまでも子供ではなく円熟した大人、すなわち、「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長」する必要があるのです。
高くて遠い目標です。
その様な事を考えれば、キリストの民が歩いてきた過ちの多い歴史とか、いまのわたしたちがつながっているキリスト教会を思えば、何と未熟なのかと思わされます。
まだまだ成長の余地があります。先は遠いですね。
しかし、このような高い目標は、人間の能力や働きで達成できるものではなく、あくまで恩恵の場での御霊の働きによります。
パウロはそのことを「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」コリントの信徒への手紙一3章18節)と表現しています。
●14節.こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、
●15節.むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。
13節でエクレシア(キリストの共同体)の形成が人体の成長を比喩として語り、その比喩をもって、この14節と15節で著者は、エクレシアというキリストのからだの成長と完成を語ります。
「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教え」、すなわち、人間の言い伝えに基づく哲学、(似非宗教など)空しい欺瞞のような偽りの教えのとりこになるのは、判断力がなくてすぐに騙される幼児の段階だとし、13節の「わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、・・成長する」ことが、ここでは別の観点から「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長して」(15節)いくことだとしています。
「真理を語り」は、真理を証することですから、「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりする」(14節)歩みの中で、「愛に根ざして真理を語る」(15節)、すなわち真理を証することだと言うことでしょう。
なお、「真理を証する」は、「真理を語る」と言う意味の動詞ということです。
そういう意味では、語ると証すると愛に生きるは、同じ意味だということになります。
偽りの教えはその中に「真理」を宿していない「風のように変わりやすい教え」のようなものです。
それに比べて、キリストの御霊の現実を「真理」とし、その愛の中を生きることを「愛に根ざして真理を語り」と言っているのではないでしょうか。
そして、その成長のあり方は、「あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長」するのです。
「あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長」ですが、体が頭に向かって成長するというような表現でおかしいのですが、初めから頭の中に描かれている完成した姿に向かって成長すると理解すれば、ということではないでしょうか。
●16節。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
コロサイ書2章19節に同じような語句があります。
それは「頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。」です。
この頭であるキリストから体の成長が出るという基本的な考え方は同じです。
コロサイ書2章19節は、「体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆく」となっていますが、ここでは、「体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長」させとなっています。
これは、著者がエクレシアを、キリストの賜物としてエクレシアに備えられた使徒、預言者、宣教者、牧者、教師たちを関節として、それぞれの分に応じた働きをする肢体が組み合わせられている構造体と見ているのでしょう。
そして、「神に育てられて成長してゆく」の神が愛になり「自ら愛によって造り上げられてゆく」と表現しているのでしょう。
これがエクレシアの神が与えてくださる成長、すなわち、「神の成長」ということでしょう。
「造り上げられてゆく」という表現は、キリストの「からだ」であるエクレシアを造り上げて行くと言うことでしょう。それが結論です。
ですから、キリストに結ばれた者は、各部分である個人としても、エクレシアの一員としても、キリストに結ばれた者全体が一致して、すなわち、それぞれが結び合わされ、組み合わされることによって、初めて神が住まわれる幕屋(聖霊が働かれる場)として機能するということでしょう。
だから、このエクレシアは一教会を指しているのではなく、(教団とか教派を越えて)全世界のキリストに結ばれた者全体を指していると思うのです。
なお、エクレシアの意味は、呼び出された者たちの集りを指すと言うことです。
全世界のキリストに結ばれた者が「自ら愛によって」キリストの頭にある完成した姿に「自ら愛によって」造り上げられていくのです。
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