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2019年8月 9日 (金)

妻と夫(5章)

聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙5章21~33節です。

神に倣う歩みは三つあります。

 

一つは、キリストにおいて神の愛のうちに歩むこと、二つは、光の子どもらしく歩むこと、最後に、賢い人のように歩むことです。

神に倣う三つの歩みのためには、御霊に満たされることが必要です。

 

だから著者は、「酒に酔いしれないで、御霊に満たされなさい。」と勧めました。

そして、その御霊の満たしの現われとして、主に賛美と感謝の念がおのずと心の底から湧きあがると言っています。

不思議ですが、わたしもそのように思います。

 

ここで言っていることは、キリストに結ばれた民として、外の世界での社会生活の場面での歩み方ですが、夫と妻、親と子、主人と奴隷という家庭内の人間関係に限られています。

 

国家権力との関係とか社会人としての生き方一般は問題にされていません。

 

 

●21節.キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。

 

「キリストに対する畏れをもって、」は、言い換えると、キリストを畏れる(尊ぶ)ならば、家庭内でもそのような思いで「互いに仕え合いなさい。」ということでしょう。

 

しかし、「互いに仕え合い」と言っても、「畏れをもって」ですから服従を求めているのです。

 

それでは、「互いに仕え合いなさい」と服従はどのように関係するのでしょうか。

 

服従ですから、妻が夫に、子が親に、奴隷が主人に服従することが求められているのでしょうか。

 

妻と夫、子と親、奴隷と主人が「互いに」服従するのではないと思います。

 

結論としてこの個所は、キリストの集会内の信徒相互の交わりにおいて、「キリストに対する畏れをもって、(服従して)互いに支え合いなさい」ということではないでしょうか。

 

当然ですが、畏れはキリストに対しであって、信徒に対し畏れるわけではありません。

 

次節以降で、それを家庭内の事に用いています。

 

●22節.妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。

 

ここは21節からつながっていて、ここ22節をギリシヤ語に沿って訳したら、「キリストを恐れ尊んで、互いに従い、妻は主に従うように、自分の夫に従いなさい。」となるそうです。

 

ですから、妻が一方的に夫に仕える(服従する)ということではないのです。

 

25節から書かれているとおり、夫は妻を愛することによって、キリストにあって妻に仕える(服従する)のです。

 

この相互関係がないかぎり、妻が夫に仕える(服従する)関係が成り立たないということでしょう。

 

服従と書くと権威あるものは服従する者に対し、自分の裁量で何をしても構わないというように受け取れます。

 

しかし、妻が服従する夫は、主に服従する必要があるのです。

 

そうであって初めて、夫婦は互いに支え合うことができるのです。

 

そこがポイントでしょう。

 

●23節.キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。

 

●24節.また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。

 

妻はすべての面で「夫に仕えなさい。」と求められます。

 

そしてその仕え方は、「主に仕える(服従する)ように」と、キリスト信仰を根拠としています。

 

そのように服従することを求める根拠が、「夫は妻の頭であるからです」と述べられ、さらに夫が妻の頭であることが、「キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように・・妻もすべての面で夫に仕えるべきです。」と、キリストと教会(この教会は町中にあるような個々の制度的教会でなく、キリストの民の集まり、つまり、エクレシアのこと)の関係から確認されます。

 

●25節.夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。

 

この手紙の著者は、まず下位に立つ者に服従を説きますが、同時に上位の者に対して下位の者への態度を説く、すなわち、妻に対して夫への服従を説いた著者は、すぐに夫に対して妻を愛すべきことを説きます。

 

この場合も、24節の妻の場合と同じく、キリストとその民エクレシアとの関係と同様だとしています。

 

著者は、「夫たちよ、・・妻を愛しなさい」と言います。

 

もちろん、その「愛しなさい」は、アガペーの動詞形ということです。

 

動詞形と言うことは、愛は行いを伴うからです。

 

ですから、ここの「愛しなさい」は男女間の性愛(エロース)でなく、人間の自然の情愛でもなく、それらを含みアガペーの愛をもって愛することを説いているのです。

 

アガペーの愛とは、もちろん、キリストの愛です。

 

キリストの十字架の死は、わたしたちに対する神の愛の表現、すなわち、罪人であるすべての人間に対する神の愛です。

 

妻は、夫から愛されているという安心感があって初めて、 妻は夫に服従することができるのです。

 

その愛の根拠は、キリストの愛ですから確かです。

 

●26節.キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、

 

●27節.しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。

 

手紙の著者は、夫と妻の関係を説くのに、キリストと教会(キリストの民の集会、エクレシア)の関係をモデルにしましたが、その結果、キリストと教会(エクレシア)の関係が結婚関係を比喩として語られます。

 

婚礼の前には花嫁を沐浴で清めて花婿の側に立たせますが、それを比喩として洗礼を意義づけ、洗礼によって告白されるキリストの出来事の目的を説明します。

 

ここでは洗礼が「水の洗い」と呼ばれ、清めるための儀式のように扱われています。

 

「言葉を伴う水の洗い」と言うのは、キリストが水ではなく「言葉により」教会(エクレシア)を清められるということでしょう。
「水の洗い」 は、言葉による清めの象徴と理解すべきでしょう。

 

その「言葉により」というときの「言葉」とは、キリストの十字架と復活の出来事を告知する福音の言葉であり、イエス・キリストの教えの言葉でしょう。

 

「水の洗い」を受ける者は、その「言葉により」その者に御霊が働かれて、教会(エクレシア)は「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない」ものになるのです。

 

その結果、教会(エクレシア)は「栄光に輝く」花婿であるキリストの前に立ち、キリストとの婚姻関係に入るということでしょう。
このように、キリストとキリストの民の関係を婚姻関係で表現しています。

 

●28節.そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。

 

夫に、自分の妻を「自分の体のように」愛すように求め、自分の「妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです」と締めくくります。

 

「自分の体のように」と言うのは、人はみな自分の体を大切にします。

 

体あっての生活ですから当然です。

 

そのように、夫は妻を自分の体のように大切に扱うべきだと言うことでしょう。

 

夫が妻を愛すべき根拠は「夫は妻の頭である」(23節)からです。

 

それは、頭であるキリストが体である教会(エクレシア)を愛されたという事実に根拠があります。

 

このように妻を自分の体として愛する夫は、自分と一体である者を愛しているのですから、「自分自身を愛している」ことになります。

 

こうして、「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」というキリストの基本的な戒めは、妻を自分の体として愛することにおいて成就するのです。

 

●29節.わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。
●30節.わたしたちは、キリストの体の一部なのです。

 

夫は妻を自分の体として愛しなさいと説いた著者は、そのことを「わが身を憎んだ者は一人もおらず、・・わが身を養い、いたわるものです。」と、当然の事実として根拠づけます。

 

しかしここでも、「キリストが教会になさったように」(29節)と、キリストが御自分の体である教会(エクレシア)に賜物を与えて大事にされている事実を引き合いに出しています。

 

「わたしたちはキリストの体の一部」(30節)だから、キリストはわたしたち一人ひとりに御霊の賜物を与えて養い育て、大事にしてくださっていると言うことでしょう。

 

こうして、著者は、夫と妻のかかわり方をキリストとキリストの民の集会・共同体であるエクレシアとの関係で根拠づけ、これまでに述べてきたことを次節でまとめます。

 

●31節.「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」

 

この箇所は、七十人訳ギリシア語聖書の創世記二章二四節の引用だと言うことです。

 

著者は聖書のこの言葉によって、人は結婚によって自分の妻と結ばれ、二人は一体となるのだから、妻は自分の一部であることになるとし、そのことを、先に「自分の体のように妻を愛しなさい」と言ったことの根拠としているのでしょう。

 

●32節.この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。

 

「この神秘」とは、創世記二章二四節を指すのですが、聖書(旧約新約)の言葉の全体を指していると思います。

 

そして、この聖書の言葉は神秘ですから「奥義」です。

 

奥義とは、人の目には隠されているが、神からの啓示によって知られることになる霊界の現実です。

 

著者は、「この神秘は偉大(深淵)です。」と、自分に示されている奥義の深さに改めて感じ入ります。

 

そして、その奥義の内容を「キリストと教会について」とします。

 

すなわち、聖書の言葉はキリストとその民の集まりであるエクレシアとの一体関係を語っているのだとするのです。

 

キリストとキリストの民の集会(エクレシア)との一体関係、すなわちキリストはそのキリストの民の集会(エクレシア)の頭であり、キリストの民の集会(エクレシア)は霊なるキリストが働かれる場としてキリストの体であるという神秘は、人間の通常の探求では到達できない理解であり、神の御霊による啓示によって初めて到達できる理解であるとするのです。

 

地上の結婚は、キリストとキリストの民の集会(エクレシア)と一体関係であることによって、その理想の姿を実現するのです。

 

キリストとキリストの民の集会(エクレシア)の一体性という奥義が結婚を根拠づけるのであって、 その逆ではないのです。

 

結婚という人間の営みは、キリストとキリストの民の集会(エクレシア)の一体性という奥義を示唆する比喩であっても、キリストと信徒の結びつきを保証するとか、根拠づける秘跡ではありません。

 

31節で「「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」とし、32節で「この神秘は偉大です。」と言っています。

 

この個所は、結婚式でも読まれる、有名な聖書箇所です。

 

けれども、手紙の著者は、この箇所は男女の結婚だけではなく、実はキリストとキリストの民の集会(エクレシア)の関係をも指し、本体はそちらだと言っているのです。

 

キリストの民は、対価を求める関係、すなわち、神のために何かを行ない、それに対する報酬を得るような関係ではなく、男女の結婚関係のように、結び付けられてしまった関係なのです。

 

●33節.いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。

 

夫に対して、妻を自分の体として愛しなさいとありましたが、ここでは「自分自身のように」愛しなさいと言っています。

 

人は自分自身を愛するのに条件を付けませんから、わけ隔てなくという意味でしょう。

 

「妻は夫を敬いなさい」 の「敬う」は、「恐れる、畏敬する、敬う」という意味の動詞ということですから、21節の「キリストを畏敬するように」の畏敬と同じですね。

 

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