キリストの体は一つ(1)(4章)
聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙4章1節から16節です。
二回に分けまして、(1)は1節から10節までとします。
●1節.そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、
●2節.一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、
●3節.平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。
著者はまず、「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、」なさい。と、キリストの民の歩み方についての基本的なあり方を述べます(1節)。
そして、キリストの民の集会(エクレシア)の「霊による一致を保つように」、すなわち、そのために「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐」するようにと勧告します。
自分の思いを相手に押しつける自己主張を克服し、愛と忍耐をもって自分と異なる者を無条件で受け入れるように言っているのでしょう。
著者はそれを「平和のきずな」と呼び、それは「霊による一致を保つことで」得られるとしています。
2節に上げられている「愛、謙遜、柔和、寛容、忍耐」はみな、「御霊の実」です。(ガラテヤ5章22節から23節参照)。
このように御霊の実によって、「争い、そねみ、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」というような肉(生まれながらの人間本性)の働き(ガラテヤ5章20節)を克服することが、「霊による一致」ということでしょう。
決して、組織の一致や教義・教理の一致ではないのです。
人はそれぞれ様々な面を持っていますが、そのままの状態で御霊によって交わるのが「霊による一致」ということでしょう。
現在のキリスト教は、多くの教派・教団に分かれていますが、この御霊による一致があればすべての教派・教団の一致は現実になります。
希望がわいてきますね。
キリストの民の集会(エクレシア)が、実際にこの世において、どのようにあればよいのかを、具体的に語っているのでしょう。
●4節。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。
一人の人にからだは一つしかないように「霊は一つ」ですから、キリストの体であるキリストの民の共同体(エクレシア)も一体(一つ)でなければならないと言うことでしょう。
一つの体が二つ三つと切り分けられてはならないのです(コリントⅠ1章13節参照)。
当然キリストの集会の内に働く御霊も同じ御霊です。
その働きや現れは様々な形を取っていますが、同じ御霊が働いておられるのです。
「一つの希望」とは、キリストの福音によって召された者が与る「希望」は一つという意味でしょう。
この「希望」とは、2章12節に書いたように、将来の終末的栄光を待望するという意味の希望ではなく、むしろ神との関わり、すなわち御霊に満たされて生きる現実を指しているのだと思います。
つまり、現在キリストにあって受けている霊的資産を指しているのでしょう。
当然同じ共同体に生きる者ですから、同じ相続財産を受ける事になります。
●5節.主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、
●6節.すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
此処は一致の根拠を言っているのでしょう。
そして、その根拠となる、キリストの共同体の土台となるものの唯一性を数え上げています。
「主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一」(6節)です。
信仰もただ一つですが、この「信仰」の一致を図るために、キリスト信仰の告白の定式化とか、使徒信条の作成などが生まれたのでしょうね。
ただし、教義・教理の一致は疑問です。教義・教理は人間が作った宗教上のことで、キリスト信仰は真理ですから、両者は一致するとは限りません。
次に洗礼ですが、洗礼も誰によって行われたものであれ、また、どのような形で行われたものであれ、同じ主イエス・キリストに属する者となる告白によって、すべての洗礼は同じです(コリントI1章13節参照)ということでしょう。
誰が洗礼を授けるとか、どのような方法によるとか形式にはこだわりません。
洗礼はあくまで儀式です。
ただし、ここで言う洗礼が、御霊による洗礼ならば儀式ではありません。
最後に、「すべてのものの父である神は唯一」とは、キリストの民は、唯一の同じ父なる神を礼拝しているのですから、一つの民であり、互いに争い憎み合う分裂などあり得ないと言うことでしょう。
もちろん、この父なる神は、わたしたちキリストの民だけの神ではなく、宇宙万物すべての創造主ですから、「すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」(6節)ということです。
●7節.しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。
キリストの共同体は一つになっている必要があるのですが、その一致を保つには、組織としてではなく御霊による一致が必要です。
一致の鍵は、成熟です。
手紙の著者は7節から16節において、一致をもたらすところのキリスト者の成熟と、キリストのからだの建て上げについて話しています。
「キリストの賜物のはかりに従って」とは、「賜物のはかりに従って」ですから、わたしたちが一つであっても、すべての事柄において同じとならなければいけないと言っているわけではないのです。
むしろ、わたしたちひとりひとりに異なった(その人に合った)賜物が与えられているので(著者は、この賜物を恵みと言っています。)、賜物というのはわたしたちの持って生まれた能力ではなく、「恵み」ですから、あくまでも、わたしたちが信仰によって生きているときに、神が知らず知らずのうちに備えてくださっている能力というか、善きものということでしょう。
●8節.そこで、/「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた」と言われています。
●9節.「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。
著者は賜物を「キリストの賜物」としています。
それを根拠づけるために著者は聖書(旧約)を引用し、それを解釈して「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた」と書いているのでしょう。
そしてその引用個所は、詩篇68編19節からということですが、何処をどのように解釈したのか、ヘブル語の聖書も七十人訳ギリシャ語聖書も持っていないし、また、読めないわたしにはわかりません。
新共同訳を見ましたが、どのように引用したのかよくわかりません。
解説では、ここはイエス・キリストの昇天の事と「人々に賜物を分け与えた」ことを語っているのではということです。
すなわち、使徒信条の「キリストは、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり」と同じことを言っているのではと言うことです。
イエスは十字架につけられ、葬られてから、地の低い所、つまりハデスに下られました。それから、よみがえり、弟子たちに現われ、天にのぼられました。
イエスが天にのぼられてから、低い所、地上に降りて「人々に賜物を分け与えられた」のです。
それは、地上にご自分の支配と勝利を示すために、賜物をあらゆるところに満たすために下られたのです。
その賜物の内訳は11節です。
ハデスにいる旧約聖書の聖徒たちのところにも行かれて、ご自分がそばにおられること、ご自分が一人一人に関わることをお示しになったということです。
●10節。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。
「この降りて来られた方」とは、もちろんキリストですが、それでは、「すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られた」とはどういうことでしょうか。
「もろもろの天よりも更に高く」というのは、わたしたち人間がいるところではなく、(執り成しのために)父なる神がおられる所を指し、父なる神の右の座につかれたと言うことでしょう。
だから天には複数の天があるということが分かります。
そして、キリストが天よりも高く昇られた目的は、ただ神の右の座につかれたというだけではなく、「すべてのものを満たすため」でもあったと言うのです。
これはどういうことでしょうか。
これは、キリストは父なる神の右の座につかれて、勝利者としての信仰者一人一人を神の御霊で満たし、キリストの兵士としてエクレシア建設の重要な役割を果させ、罪の中にいるすべての人々を救うための御計画の働きに必要なすべてのものを満たすために執り成して下さっていると言うことでしょう。
わたしたちが神に選ばれてキリストの民に連なったのは、選ばれて終りではなく、すべての民を救いに導くという仕事のためでもあるわけです。
そのために、キリストは「もろもろの天より高く昇られたのです。
このようなキリストの民について、ヨハネの福音書14章12節のイエスの言葉があります。
「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」です。
この「大きな業」とは、解説では、信徒が人間の力によるのではなく、神の充満で満たされたキリストの兵士として用いられることにより、(敵である)サタンの手下であった者たちでさえも、 パウロのようにキリストの兵士に造り変えて、キリストの手足となって働く者とされることを指しているのではということです。
« キリストの愛を知る(3章) | トップページ | キリストの体は一つ(2)(4章) »
コメント