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2019年8月 7日 (水)

新しい生き方(2)(4章)

聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙4章25節から5章5節です。

二回に分けまして、(2)は5章1節から5章5節までとします。

 

●5章1節.あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。

 

「神に愛されている子供」ですが、子供は親が言うこと、行なうことを真似しながら生きています。

それと同じように、わたしたちも神に愛されている子供として、親である神に倣う者になりなさいということでしょう。

「神に倣う者」とは、ギリシヤ語では、「模倣する」とか「真似をする」という意味だそうです。

 

32節で、「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように」、それを基準に赦し合いなさいとと言われても、到底自分にはできない高尚な生き方だなあ、と感じてしまのですが、神に倣う者に、すなわち、神の物まねをしたらできると言われているのですね。

 

 

その根拠は、わたしたちは神の子供だからです。

 

人間でも、子供は親の真似をして大きくなります。

 

神の子供には、神の御霊、聖霊が内住し働いていますからね。

 

●2節.キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。

 

キリストに結ばれた者の実際の歩み方を説き勧める勧告が続いています。

 

1節で神に倣う者でありなさいと言って、ここでは、その上に「愛によって歩みなさい」と言っています。

 

「神に倣う者」になることができるのも、「愛によって」歩む事が出来るのも、わたしたちは神に愛されている子供だからです。

 

その神の愛の根拠は、「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださった」から、そのキリストの愛によって歩む、すなわちイエス・キリストの十字架死と復活を信じ、自己のすべてを神に委ねて歩むのです。

 

「キリストが、・・御自分を香りのよい供え物・・・として、・・神に献げて」ですが、この「献げた」の原語は「引き渡した」の意味だそうです。

 

パウロはキリストの十字架の死を神の愛の表現とし(ロー マ書5章8節)、自分に対する神の子キリストの愛の表現としていますが、この手紙の著者は、この十字架の愛を原型として、キリストに結ばれて生きる民はこのような性質の愛に歩むことが「神に倣う」ことだとしているのでしょう。

 

なお、「御自分を香りのよい供え物、」というのは、イエスご自身は傷のない雄牛であって、ほふられて、その血が祭壇に注がれましたが、それは、罪を負われたイエスが十字架において、神の聖なる火によって焼かれたのと同じだということでしょう。

 

イエスは、このようにわたしたちを愛する愛のゆえに犠牲になって下さったのですから、このことを知れば、自ずと自分が神に対して、また隣人に対して、どのように接すればよいかを知ることができると言っているのだと思います。

 

●3節.あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。

 

2節で「愛によって歩みなさい。」と勧めたのに、ここでは「みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。」と言っています。

 

著者は何を言いたいのでしょうか。

 

解説では、この「貪欲なこと」とは、物欲というよりも、性的な欲望の意味ではと言うことですから、不品行や、性的な汚れやむさぼりは、神の愛(アガペー)とは正反対のものである、と言っていることになります。

 

●4節. 卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。

 

●5節.すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。
このことをよくわきまえなさい。

 

3節から5節を通して見ると、この手紙の著者は、キリストにある者の現実の歩みについて、原則から具体的な勧告になり、「聖なる者にふさわしく」歩むこと、すなわち神に属する民、「キリストと神の御国に相続分を持つ者」にふさわしく歩むことを求めています。

 

反対に聖なる者としてふさわしくないこととしてあげられているのが、「みだらなこと、不潔なことを行うこと」です。

 

それは当時異邦人社会、つまり異教の宗教社会によく見られた、性的退廃を指しているのでしょう。

 

そういう状態を、偶像礼拝だとしています。

 

そして、並んであげられている「貪欲」です。

 

貪欲は際限のない物欲と色欲だけに生きる放縦な生活を意味しているのでしょう。

 

4節で著者は、「卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。」とし、嫌悪すべき異教の悪徳(卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談)を「口にすらしてはいけません」(3節)と、そういう言葉を使うことさえも退けることを要請しています。

 

これは、心の中にあるものが口に出ると言う考えですから、口に出す前に心の中にそのような悪徳を抱かないようにという厳しい要請でしょう。

 

聖なる者の思いは、神と救い主キリストに対する感謝の思いだけですから、口から出る言葉はいつも感謝と賛美の言葉であるのが、キリスト者にふさわしい姿だと言うことでしょう。

 

そして、5節では「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者」、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。」ですから、異教の宗教の「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者」の姿は、性的退廃状態を偶像礼拝だとして、そういう者はすべて「キリストと神の御国」において「神との国を受け継ぐ」ことはないのです。

 

相続分はないと警告しているのです。

 

この「キリストと神の御国」において相続分はないということは、将来の「神の国」で相続分がないだけではなく、現に御子キリストが支配される王国(キリストにおける支配、霊的現実)に参与することもないと警告していることになります。

 

 

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