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2019年8月 7日 (水)

新しい生き方(1)(4章)

聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙4章25節から5章5節です。

二回に分けまして、(1)は4章32節までとします。

 

●25節.だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。

 

先の17節から24節でキリストに属する者の在り方と歩みについての原則を語り、ここではその原則を日常の生活の中で実現するための具体的な方法を語っています。

 

24節を受けて、「だから、」と切り出します。

「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を」進んで語ることが求められます。

 

真実を語る「隣人」は、「隣人を愛しなさい」の隣人ですから、キリストの民の共同体であるエクレシアの交わりの中にいる兄弟を指しているのでしょう。

 

 

したがって、著者の関心はここでもエクレシアの交わりの中での生き方にあるのでしょう。

 

●26節.怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。

 

「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。」ですが、外から不当な仕打ちをされたら怒りの感情を覚えるのは当然の感情です。

 

それは人間の心理としては避けられませんが、その怒りをいつまでも心の中に抱いて、相手に対する恨みとしてはならないと言うことを「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」と表現しているのでしょう。

 

なぜならば、その恨みから相手を傷つける罪の行為が生まれるからでしょう。

 

したがって、ここは怒らないようにという勧めではなく、怒っても、恨みを残さず(恨みを残すと罪を犯すようになるので)罪を犯してはいけないと言う勧めでしょう。

 

●27節.悪魔にすきを与えてはなりません。

 

●28節.盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。

 

怒るのは人間の感情として避けられないが、いつまでも恨みを抱き続けることは「悪魔にすきを与え」(27節)ることになります。
悪魔は神と人との間を裂き、人と人との間を裂き罪に導く働きをしているからです。

 

「盗みを働いていた者」(28節)と言っています。

 

キリストの民の中にはそういう人もいたのでしょうか。意外ですね。

 

大都市には貧しい人も多くいたでしょうから、その人たちがキリストの民の集会に入ってまだ間が無く、福音がよく理解できていない人がいたのかもしれません。いや、生活に困りその目的のために入ってきたのかもしれません。

 

ただし、解説では、ユダヤ教には、働かないで食べている者は盗みによって生活する者であるという考えが背景にあったそうです。
したがって、「盗むな」は「働け」という勧告になるそうです。

 

●29節.悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。

 

ここでは口から出る言葉を問題にしています。

 

わたしたちは言わなくてよいことを言って相手を怒らして失敗する事がよくありますが、そのことを言っているのでしょう。

 

人間は言葉あっての人間ですから、言葉の使い方は大切です。

 

人は言葉によって相手を幸せにすることも、相手の心を傷つけ、死に至らせることもできます。

 

言葉の暴力という言葉がありますが、その場合は心が傷つきますから、あとあとトラウマにもなり関係を二度と修復できない事態もあります。
ときには、態度による暴力より相手に対するダメージが大きいかも知れません。

 

人を腐敗させ傷つける言葉は、汚れた心から出てくるのでしょう。

 

それを口に出さないことが良いのですが、それが生身の人間の弱いところで、なかなか難しいものがあります。

 

しかし、キリストにある者は、御霊にあって心の中を喜びと平安で保ち、自然と出てくる愛のこもった言葉で、必要としている人に慰めや平安を与えるように心掛けることが大切だと思います。

 

そうすることによって、舌をコントロールすることを学ばなければならないと思います。

 

必要なときに、人の徳を養うのに役立つ言葉を話し、聞く人に恵みを与えることが出来れば幸いです。

 

大変難しい課題ですが、御霊にあって叶えられるように祈りたいと思います。

 

●30節.神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。

 

神の御霊は愛の性質を持つ命の源泉ですから、その御霊を宿しているキリストの民は、大声で罵ったり、怒りにまかせて激しい言葉を相手に浴びせたり、みだらな冗談を繰り返すなど、わたしたちが慎みを忘れた形で言葉を使っていると、内におられる御霊を悲しませることになります。

 

その聖霊を悲しませることは、終わりの日の希望を失う(終わりの日の贖いの保証を見失う、御国の相続をできない。)ようになると思うのです。

 

聖霊は、キリストの民に内住することによって、「贖いの日に対して保証(証印)されている」のです。

 

聖霊は、わたしたちがキリストを信じた時からその人のうちに住まわれるのですが、一旦住まわれると、何があっても聖霊が離れていってしまわれるようなことは、決してないのです。

 

聖霊はわたしたちを励まし、慰め、力づけ、終わりの日にこのからだが変えられて復活するときまで、わたしたちと共におられると聖書は教えています。

 

「贖いの日」とありますが、これは、キリストが再び来られて、わたしたちを引き上げてくださる時のことでしょう。

 

そのときには、わたしたち肉と罪の問題もすべてなくなり、栄光の体に変えられます。

 

それは罪からの解放の日とも言えます。

 

「解放」とは、もともと捕虜や奴隷の状態から解放されることを指しますが、ここではわたしたちがこの悪が支配する世の制約から解放されて永遠の御国を相続することを指しているのでしょう。

 

●31節.無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。

 

「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを」一切の悪意と一緒に捨てなさいと言っています。

 

これらの感情を心の中に持っていれば、わたしたちの心は傷つき、内住されておられる聖霊はもっと悲しまれて、そして、わたしたちの心と体の健康が損なわれます。

 

●32節.互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

 

わたしは30節でー何があっても旧約の時代のように、聖霊が離れていってしまわれるようなことは、決してないのです、と書きましたが、逆に、繰り返し罪を犯すことにより大切な御霊を悲しませると、ついには聖霊を失う、つまり、救いを失うと言う考えがあります。

 

わたしが思うに、新約聖書は圧倒的に多くの箇所で、神は約束されたことは必ず守られるという意味で、救いは永遠であることを教えています。

 

参考となる聖書個所は、ヨハネの福音書10章29節、ローマ人への手紙4章21節、8章38節から39節、14章4節、エフェソ人への手紙1章22節、3章20節、他多数、です。

 

ですから、一度信じて救われたら何をしてもよい、自由気ままに生きても(何度罪を犯しても)赦されるという考をする人もおられます。

 

結論として、わたしは一度救われた人は、何があっても永遠に救われていると考えます。

 

しかし、救われたからと言って、何をしてもよい、自由気ままに生きて良いというわけではないと思います。

 

おそらくそれに見合う神の訓練があると思うのです。

 

いや、いったん神を信じた人は、自由気ままに生きると言っても、神を忘れることは決してないと思いますので、何をしても、しょせん神の下で駄々をこねているだけかもしれませんがね。

 

「互いに親切にし、憐れみの心で接し、・・赦し合い」がキリストに結ばれた者の歩むべき道なのです。

 

そして、赦し合う程度が、「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、」が基準です。

 

しかし、現実の問題として、自分に害を及ぼすものを愛し,赦すことが出来るか疑問ですが、神はキリストにあって(御霊の働きにあって)出来ると言われているのです。

 

だから、わたしたちは聖霊が働きやすい場を提供する必要があるのですね。

 

それが31節と32節に書かれているのでしょう。

 

神は、わたしたちのことをよくご存知です。

 

もしわたしたちが、人を赦さなければいけない状況に置かれたら、その時には赦すことができる力をも与えて下さると思うのです。
他者に対する愛と赦しの試みの場を与えられるのも神様です。

 

ですから、まだ起こっていない状況を考えて、その時にはできるかどうかなど考え悩む必要はないと思うのです。

 

神が許された今与えられている状況の中で、神は、キリストにあって隣人を愛しなさい、赦し合いなさいと言われているのだと思うのです。
人を赦すには力が必要です。

 

勇気が必要です。

 

それに時もあります。

 

わたしたちは赦す決断をして、祈りながら時を待つことが必要だと思うのです。

 

したがって、今すぐに、その人を赦せなくても、自分を責める必要はないと思うのです。

 

わたしたちが人を赦す力は、御霊の働きによるのですから、御霊はわたしたちの悪い感情が取り除かれるのを待っておられるのかもしれません。

 

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