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2019年8月11日 (日)

奴隷と主人(6章)

聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙6章5節から9節です。

 

●5節.奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。

 

今度は、奴隷と主人の関係ですが、なぜこれを取り上げたかは、奴隷もローマ社会の家族を構成する一員であったからでしょう。

 

家族の中の最も下の奴隷に「肉による主人に従いなさい。」と求めています。

 

奴隷制ローマ社会で、奴隷が主人に従うのは当然ですが、「キリストに従うように」ですから、奴隷として肉の主人に従うのを、キリストへの信仰によってということでしょう。

 

それも、「恐れおののき、真心を込めて、」従うように求めています。

 

これは現在の雇用者と被雇用者との関係にも用いられるでしょう。

 

 

わたしたちが会社の上司に対してどのように接していけば良いのかということです。

 

「真心を込めて」と言っているのは、雇い主のご機嫌ばかりを考えるような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、人にではなく主に仕えるように、「真心をもって」(裏表なく)仕えなさい、ということでしょう。

 

ご機嫌取りばかりを考えている仕え方ならば、上司が見ているところでは、一生懸命働くのですが、見ていなければさぼります。

 

キリストに結ばれた者は、そうであってはいけないと言うことでしょう。

 

●6節.人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、

 

●7節.人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。

 

前節と同じことを言っています。

 

その人が奴隷になったのは、戦争捕虜とか借金のために心ならずもその様な身分に陥ったのです。

 

例外もあるかもしれませんが、力ずくで支配されている立場ですから「うわべだけで」主人に仕えるのはよく分かります。

 

うわべだけで主人に仕えれば、主人のご機嫌をとり、自分を守ることのみを考えて仕えるようになります。

 

そのような立場の奴隷に著者は「キリストの奴隷として、」「心から神の御心を行う」(6節)ことによって、「人に対してではなく主に(キリストに)仕えるように、(肉の主人に)喜んで仕える」(7節)ようにと勧めます。

 

そのように心から喜んで肉の主人に仕えることができれば、奴隷は自分を殺し、意に沿わない支配者の命令に従うと言う苦悩(心の束縛)から解放されます。

 

そして、自発的に自分の人生を生きることができます。

 

それは、自分がキリストの奴隷である、そうすることが神の御心を行っているのだと自覚することができるときに可能となるのでしょう。

 

キリストに仕える者は、キリストに力ずくで支配されているのではなく、心からキリストに仕えているのです。

 

それはキリストに愛されていることを知っているからです。

 

その心でキリストに仕えるとき、神の御心によって与えられた「肉の主人」にも「喜んで(自発的に)」仕えることができるようになるということでしょう。

 

●8節.あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。

 

「善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。」というのは、奴隷であっても自由人であっても、すなわち、身分に関係なく善いことを行えば、主からその善い行いに対する善い報いを受けることができると言うことでしょう。

 

そうであれば誰でも、自分を雇っている主人から善い報いが無くても、主から善い報いを受けて、心豊かに生きることができるのです。

 

人は置かれ生活場所で(置かれた生活場所は主の計らいですから)、そこに主人、あるいは仕える人・組織があれば、主に仕えるようにその人とか組織に善い行いを持って仕えることを勧めているのでしょう。

 

ここの「だれでも」と言うのは、キリスト者であろうとなかろうと誰でもという意味でしょう。

 

●9節.主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。

 

「同じように奴隷を扱いなさい。」というのは、奴隷を同じように(人と分け隔てしないで)公平に扱えという主人たちへの勧めでしょう。

 

「彼らを脅すのはやめなさい。」とは、主人は奴隷に対して支配する力を持っていますから、ともすればその力に頼り、処罰とか力ずくで脅かして従わせようとします。

 

そのことを言っているのでしょう。

 

その様に、力ずくで支配することを止めなさいということでしょう。

 

そして、その根拠として、「あなたたちも知っているように、」天には「彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」ということです。

 

奴隷たちを公平に扱う根拠を、主人にも奴隷にも天には人を分け隔てなさらない同じ主人がおられるのです。

 

現代社会には奴隷制はありませんからこのような勧告は関係ないように思いますが、よく考えると、現代社会にも力による支配関係は様々な形で存在します。

 

例えば、ブラック企業と言われている会社に勤めて苦しんでいる人もいるでしょう。

 

ですから、奴隷制社会に生きる人たちへのこの勧告は、現代を生きるわたしたちにも通じるところがあると思うのです。

 

これらの勧めの要は、この世界の、また、わたしたちの人生の出来事のすべては父なる神が支配しておられるという前提のもとに、「御霊に満たされなさい」ということでしょう。

 

今わたしたちがいる場所とか周りの人々は、主の計らいですから、その中でキリストに従うように周りの人々に従い、善きことを行って生きると、そこには御霊が働いておられる事になりますので、善いことを行えば報いがあるのです。

 

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