キリストにおいて一つになる(2)(2章)
聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙2章11節から22節です。
二回に分けまして、(2)は17節から22節までとします。
●17節.キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
イエスは、十字架を通して、「両者を一つの体として神と和解させ」敵意を滅ぼされたのです。
「敵意を滅ぼ」すとは、神はわたしたちに対する敵意を、ご自分の子イエスに置かれ、イエスを十字架に架けられることにより敵意を滅ぼされ、和解の場を設けられたと言うことでしょう。
あくまで和解の場を設けられただけですから、和解の告知を受け入れてその場に入るか否かはわたしたちにかかっているのです。
そのことを「平和の福音」と言っているのでしょう。
「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがた(神から遠く離れていた異邦人)・・近くにいる人々(イスラエルの民)にも、平和の福音を告げ知らせられました。」ということは、当然キリストは十字架にかけられて死んでおられませんから、キリストの御霊の働きを指し、使徒たちの福音宣教において、キリストが世に来て今も働いておられるという理解が背景にあるのでしょう。
14節から18節の長い一文の主語はキリストと言うことですから、そういうことでしょう。
●18節.それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。
「両方の者」とは17節の「遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、」を指し、「一つの霊に結ばれて」ですから、ここでその区別は、今は無意味で、「両方の者」、すなわち遠い者であった異邦人と近い者であったユダヤ人の両方が一つの霊に結ばれて、(キリストの民となって)御父に近づくことができるのです」。
「御父に近づく」ですが、その行為はあくまでも「キリストによって」なされることで、今まで誰もなしえなかったことです。
それは、キリストの「平和の福音」の告知を受け入れる事によって、御霊が働かれてわたしたちは神と一つになれるように新しい人間に造り替えられるのです。
キリストが十字架につけられたときに、人と神を隔てる垂れ幕は引き裂かれました。
それは、神殿とか祭儀によって神との関係を保つ宗教の終わりを指しているのです。
今や、すべての人がキリストによって父なる神のみもとに近づくことができるようになったのです。
●19節.従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、
キリストに結ばれた者は、外国人であっても寄留者であっても誰でも「神の家族」なのです。
その家族は「一つの霊に結ばれて」いるのです。
わたしたちは御霊によって新たに生まれ変わり、またキリストのからだの一部とされたと言うことでしょう。
そこでパウロは、キリストのからだにおける御霊の働きについて次から話していきます。
このようにあなたたちユダヤ人と異邦人はキリストによって近い者とされたのだから、「あなたがた(異邦人は)もはや、外国人でも寄留者」でもなく、今は聖なる者と国籍を共にする者、すなわち「聖なる民に属する者」です。
そのような者として、あなたたちは今や「神の家族」であるということでしょう。
●20節.使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、
この手紙が書かれた紀元80年ごろ、また、今を生きるわたしたちが土台としているのは、「使徒と預言者」であります。
「使徒や預言者という土台の上に建てられて」と言うのは、使徒が宣べ伝えていた神の言葉であるキリストの言葉と出来事が、キリストに属する者の土台となっているということでしょう。
使徒たちが伝えている神の言葉ですから、新約聖書の言葉が土台となっていると言うことでしょう。
「預言者」とは、もちろん預言者の事を書いてある旧約聖書を指していて、それもまたわたしたちの土台となっているのです。
なぜなら、新約聖書は旧約聖書の律法と預言がキリストにあって成就したことを宣言する書物だからです。
そして、そのかなめ石はキリスト・イエスご自身です。
「聖なる民に属する者」(19節)である神の家族、すなわち、神と共に住む家は「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられた」家です。
なお、この手紙の著者はパウロの後継者でしょうから、ここで書かれている使徒たち(複数形)の中には十二使徒のほかにパウロも入ると思います。
なお、この箇所の「預言者たち」は旧約聖書の預言者たちと先に書きましたが、別の意見もあって、それは、キリストの民の中で御霊によって「預言者」とされた人たちを指すのではという意見です。
なぜならば、そのような人たちの証言を文書にしたものが新約聖書ですから、使徒たちが伝えている神の言葉と共に新約聖書こそがわたしたちキリストの民の「土台」、すなわち、「そのかなめ石はキリスト・イエス御自身」であるということになるということでしょう。
●21節.キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。
キリストは土台のかなめ石であるだけでなく、「建物全体を組み合わせて成長」させる原理でもあります。
「建物全体」とは、キリストの民の共同体(エクレシア)を指していて、その共同体はキリストという原理(設計図)によってその全体が組み合わされ、次々と新しい部分が加えられて拡大成長し、その中に神が住まわれるので「聖なる神殿」となります。
それがキリストの共同体と言えます。
●22節.キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
「あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなる」と言うのは、わたしたち自身が神の住まいとなる、と言っているのです。
イスラエルの民は、神を礼拝するために神殿に行きましたが、わたしたちキリストの民は、その神殿そのものだというのです。
それは神の霊がわたしたちのうちに住まわれて働いておられるからです。
あなたたちはこの建物を外から眺めている者ではなく、「共に建てられ」、この建物に組み込まれて、「霊の働きによって神の住まいになる」者であることを自覚するようにと呼びかけているのでしょう。
キリストはわたしたちを外からではなく内から根本的に変えようとされているのです。
それらは、すベて「キリストにおいて」なされることなのです。
地上での神の住まいであるエクレシア(集会)は、キリストを土台とし、御霊の現実の働きによって形成されるキリスト者の共同体なのです。
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