悪と戦え(6章)
聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙6章10節から20節です。
●10節.最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
手紙の著者は、「最後に言う」と言っています。
この「最後に」というのは、「残されたもの」という意味だそうです。
著者がこの手紙を書いて、最後に残されている大切なことを、今から書こうとしていると言うことでしょう。
それは、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」ということです。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさいということでしょう。
パウロの霊的現実から生まれた警告ですが、それは、神に対抗し、またキリストにつく者たちに対抗する悪の霊的勢力がいることを、身をもって体験しているのでしょう。
具体的には、悪魔の攻撃は、人の罪に付け入り、策略、計画された巧みな手法、欺きによって攻撃してきます。
キリストの十字架は、人間の罪の完全な贖いを成し遂げ、罪を取り除きましたので、神が人に怒りを下されるあらゆる理由がなくなってしまいましたので、付け入るスキがなくなり悪魔は決定的に敗北しました。
したがって、悪魔がキリスト者を攻撃するときは、これらの真実(十字架の)を歪めて、欺くという手法を取るのです(ヨハネの福音書8章44節参照)。
そこで、悪魔の「策略」に対して立ち向かわなければいけないのですが、この手紙の著者は(パウロの言葉で)この勢力に立ち向かうことを、「神の武具を身に着けなさい。」(11節) として形容しています。
●11節.悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
●12節.わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
キリストに結ばれた者の歩みについて勧告をなした後、最後に著者は、「わたしたちの戦いは血肉」(12節)、つまり、富とか権力をめぐる人間相手の戦いではなく、本当の戦いはその人たちを支配する「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(12節)と念を押し、その戦いに勝ち抜いて勝利を得るための指示と激励の言葉をもって、実践的な勧告の部分を締めくくります。
人間はこのような「天にいる悪の諸霊」(12節)に支配されているという前提のもとに書かれています。
キリストの福音は、そのような「天にいる悪の諸霊」に支配されている人たちを、その霊的諸勢力の支配からの解放を告知したのです。
しかし、キリストの福音を受け入れてもそのような霊的諸力の働きかけがなくなったわけではありません。
キリストに結ばれた者もこの世にいる限りは、 そのような霊的諸力の誘惑や試みにさらされているのです。
このような闇の諸勢力のキリストの福音を受け入れた者(光の子)に対する働きかけは、再び光から闇に引きずり込もうとする働きかけです。
そこで先に書いた「神の武具」が登場します。
10節で、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」、そして、12節で、「しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」と、神の武具を身に着けて勇敢に戦うようにと励まします。
日常生活で起こっている諸悪の問題が、悪魔と悪霊どもによってもたらされているのです。
それら霊的な勢力を、目に見える物理的な方法で解決しようとしても無駄なのです。
物理的な方法で、人間的な方法で解決しょうとしてもこの世界から悪は無くならないのです。
天の霊的諸力は、キリストによってもたらされた霊的祝福を見えなくさせ、歪んだ情報を送り、嘘を信じさせるのです。
●13節.だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
著者は、ここで改めて「邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、」神の武具を身に着けるように説きます。
「邪悪な日」というのは、本来は黙示思想の用語で、来たるべき栄光の時代に対して、悪が支配する今の時代を指していると言うことです。
この「しっかりと立つ」は、神の子、光の子として倒れないで、その現実に踏みとどまることを意味しているのでしょう。
●14節.立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、
キリストの十字架によって征服した陣地に、猛攻撃をしかけてくる悪魔・悪霊どもに対して、神の武器をもって立ち向かうのです。
「立って」とは、キリストにある立場を保持する、抵抗するとか制止させると言う意味だそうです。
13節と違って、怠惰の中に横たわっていないで、戦いに備え心を引き締めて立ち上がることを意味しているそうです。
横たわっていたり、座っていたら武具を身につけることはできないと言うことでしょう。
「真理を帯として腰に締め」と言えば、イザヤ書11章5節「正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。」が思い浮かびます。
最初の武具「真理を帯」には時代背景があり、当時、男は足のところまで裾が来る、長い衣を身にまとっていたそうです。
けれども、仕事とか戦いに出るときは帯でその裾を引き上げて動きやすいようにしたそうです。
ですから帯を初めに締めて、他の武具を身に着け、それで盾なり、剣なりを取って戦いに出ると言うことになります。
だから、キリストに結ばれた者は、天の諸霊と戦う時は、最初に「偽り」に対抗する「真理の帯」を身に着けるのです。
真理とは、神の言葉であるイエスの言葉、つまり救いの福音(福音によって賜る御霊の現実)です(ヨハネの福音書17章17節参照)。
神の言葉は、悪の諸勢力に立ち向かうことができる唯一の武器です。
すなわち、それは天上にいる諸々の悪の霊的存在 に対する戦いに臨む戦士の腰を引き締めるベルトなのです。
イエスは言われました。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネの福音書14章6節)。
イエス自身が真理、すなわちイエスの身に起こったすべての出来事と言葉は真理なのです。
次に「正義を胸当て」とあります。
胸当ては敵の攻撃から心臓を護ります。
キリストにあって恩恵によって義とされているという確信は、信仰の心臓部に対する悪魔の攻撃に対する何よりもの防御だと言うことでしょう。
「胸当て」をパウロは「しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。」(テサロニケⅠ5章8節)と、信仰の心臓部を悪魔の攻撃からを守る胸当ては、「信仰と愛」としています。
この心臓を守るですが、それはわたしたちの心のことを表していて、悪魔はその心に絶えず神から離反するように囁くので、その誘惑をキリストへの愛と信仰で防御すると言うことでしょう。
●15節.平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
「平和の福音を告げる準備を履物としなさい。」というのは、神との和解の喜びを告知する福音のために働く準備、あるいはその心構えを指すのでしょう。
その備えが、戦いの場で動き回るのに不可欠の履物にたとえられているのでしょう。
●16節.なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
そして、戦士が手に盾を取るように、「信仰の盾」を、すなわち信仰という盾を取るように勧めています。
盾は敵の剣や矢による攻撃に備えるのですが、その盾である信仰、すなわち、主キリストへの信仰と父への信頼によって、わたしたちの弱い心や苦しい状況に乗じて「悪い者が放つ火の矢(信仰に対する不安とか疑念)をことごとく消すことができる」ということでしょう。
●17節.また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
ここでは、腰、胸、足、手に続いて、体でもっとも大切な頭を守る「救いの兜」をかぶるように説きます。
「救いの兜」とは、テサロニケⅠ5章8節「しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。」の「救いの希望」の「兜」のことを言っているのでしょう。
とうことは、救われているという喜びと確信は、悪魔の策略に対する何よりの防具だということです。
ここまで防御の方法を説いてきましたが、ここからは、敵を攻めるために手に取るべき武具を説きます。
それは「御霊の剣」です。
これには、「すなわち神の言葉」という説明がついています。
御霊が悪の霊的諸勢力と戦う時に用いる武器(剣)は、神の口から出る言葉です(イザヤ書(11章4節、49章2節参照)。
●18節.どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
手紙の著者は、ここまで霊的諸勢力との戦い方を説いてきましたが、戦うにしても、わたしたちは自分の力でそれを行うのではないのです。
戦うのは、「主に依り頼み、その偉大な力によって」(10節)戦うのです。
したがって、わたしたちはその偉大な戦う力を主からあたえられるように「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、」なければならないのです。
「霊”に助けられて祈り、」は、「・・わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。・・」(ローマの信徒への手紙8章26節と27節)ということでしょう。
どのように祈るべきか知らないわたしたちを、内にあって呻きをもって執り成してくださる御霊の助けによって祈る祈りです。
この祈りはなにも異言のことを言っているのではないと思います。
そして、その祈りは自分のために祈るだけでなく、「すべての聖なる者たちのために「絶えず目を覚まして根気よく、」祈り続けるのです。
ですから、その祈りは、一教会とか一教派などのためではなく、キリストの民すべてを指しているのでしょう。
わたしたちはいつも「絶えず目を覚まして」いる必要がありますが、それは戦いの場にいるのだという自覚を失ってはならないと言うことでしょう。
霊的諸勢力との戦いは最終的に、天上にいる諸々の悪の霊的存在に対するキリストの民の集会、共同体(エクレシア)の勝利を目標としています。
なかなか祈りが聞かれないので、祈ることをやめてしまうことがしばしばありますが、それは霊の戦いにおいては禁物だと言うことでしょう。
●19節.また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。
●20節.わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。
「聖なる者たち」のための祈りの中に、この手紙の著者は獄中のパウロのための祈りを組み入れました。
パウロの言葉として「福音の使者として鎖につながれて・・語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」(20節)ですから、パウロは獄中にいるのでしょう。
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