神の恵みはキリストにおいて満ちあふれる(1)(1章)
聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙1章3節から14節です。
二回に分けて」、一回目は7節までとします。
著者は、長い神への賛美を始めます。
その内容は、「主イエス・キリストにおいて」与えられた祝福と恵みに対する賛美です。三位一体の神への賛美です。
賛美は、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。」(3節)という言葉から始まります。
内容は、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選び」、キリストにあって「天のあらゆる霊的な祝福で満たして」下さった神(3節から6節)への賛美です。
その神は、「御子において(復活されたキリスト)、その血によって贖われ、罪を赦され、・・」、最後に「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、・・キリストのもとに一つにまとめられます(万物の統合)。」に至らせる神です(7節から10節)。
それらの出来事が、すべて神の人類救済のご計画であると言うことです。
そして、5節に「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」とありますから、約束された聖霊によって完成する栄光の御国にあずかるという相続分を、わたしたちにキリストにあって与えてくださった神への賛美です(11節から14節)。
なお、この個所は原語のギリシヤ語では、3節から14節まで一文になっているそうです。
ということは、賛美は14節まで、途切れなくなされたことを示していますので、著者は御霊に満たされて、カリスマ状態にあったのではとみられています。
●3節.わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。
「わたしたち」と言うのは、複数形ですから、キリストに結ばれた者たちを指し、父なる神がご計画によって、「キリストおいて」その者たちを「霊的な祝福で満た」しておられるのです。
ここの賛美の個所には、何度も何度も「キリストにあって」とか、「キリストによって」とか、「御子によって」とか「御子において」と、キリストにあることが強調されています。
そして、祝福が「天のあらゆる霊的な祝福」と言っています。
この意味するところは、天が実在すること、地における出来事は、実は天における霊の出来事によって支配されていることです。
ということは、わたしたちは本来天に属する者であり、この地上での生活は一時的な仮住まいであると言うことです。
わたしたちの本体と言うか、本籍は天にあるということです。
そして、天のあらゆる霊的な祝福で「満たしてくださいました。」と完了形になっています。
父なる神は、わたしたちをこれから祝福するのではなく、すでに祝福されているのです。
このように、霊的霊的祝福は完了形ですから、それを受け取ったこの世を生きるわたしたちは、受け取った結果を問われることになると思います。
●4節.天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
具体的な霊的祝福の一つは、神がキリストにおいて、御前で「聖なる者、汚れのない者に(わたしたちを)しょうと」、選んでくださったことです。
そしてその御計画は現在進行形なのです。
霊的祝福は、聖霊によってもたらされるのですが、それは、霊的次元の良いものを指すと思うのです。
「霊的次元の良いもの」の内容は、この長い賛美の中においおい出てくると思います。
「キリストにおいてお選びになりました。」とあるように、神が一方的に選ばれたのですから、わたしたちが一生懸命祈って、良いことを行なって、神に従うことを決めたから選ばれたのではないのです。
すなわち、わたしたち人間側の努力によるのではないのです。
そして、選ばれたのは「天地創造の前に」ですから、世界の基が置かれる前にわたしたちをそのような者として選んでくださっていたのです(ヨハネの福音書15章16節参照)。
もちろん、この「わたしたち」と言うのは、キリストに結ばれた者を指します。
●5節.イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
父なる神による二つ目の霊的祝福は、「イエス・キリストによって、(わたしたちを)神の子にしょうと、前もってお定めになった」ことです。
「前もってお定めになった」ですから、選ばれた者は前もって予定されていたように思えます。
ここで難しい神学論争が起こります。
すなわち、人は、永遠の昔から、救いに定められている者と滅びに定められている者がいて、それはあらかじめ定められているという予定論と、神はすべての人が救われるのを望んでおられその人の運命は、その人がキリストを信じることを選び取るかどうかに関わる、という自由意志を尊重する考えです。
しかし、わたしは思うのですが、一部の人を神の子にしようと、「前もってお定め」になったといっても、その前もって選ばれた一部の人は、全ての人を救うためのご計画を完成させるための先陣として選ばれたとも取れないでしょか。
それに、もし、救われる人が永遠の昔から決まっているならば、救われない人はなぜこの世に生まれる必要があるのでしょうか。
生まれたのは救われる者のためだとしましても、そうであれば、キリストの十字架も福音伝道も無意味だと思います。
それこそ選ばれていない命は、使い捨ての命と言えます。
わたしたちを憐れまれて涙を流されたイエスを知ると、とてもその様なことは信じられません。
●6節.神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。
「わたしたち」とは、4節・5節によると天地創造の前から選ばれた者です。
ということは、その選ばれた神の民の集合体であるキリストの共同体の存在は、アブラハムよりも先になされた神の選びに根拠があるのですから、キリストの共同体の民の選びはイスラエルの民の選びよりも先であることになります。
そして、「天地創造の前に・・お選びになりました。」(4節)のは、ここ6節で、「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」としています。
この選びと恩恵の結びつきで分かることは、選びが救いのためではなくて、神の恩恵の喜びを語り、証するためであるということです。
解説では、「選び」とは、自分が神の子であるとか神の民であるのは、自分に何の根拠(資格も)もないのに神が自分を選んでそうしてくださったとしか言えないという、恩恵の場で自分を無とする者の告白の一形式だと書かれていました。
救済史において、イスラエルが選ばれたのも「恩恵の選び」であり、選ばれたイスラエルと選ばれなかった異邦人の従順と不従順も、神がその救済史を恩恵の原理で貫かれるために必要であると言うことでしょう(ローマ書11章28節から32節参照)。
●7節.わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
神の霊的祝福は、御子による贖いがあります。
贖いというのは、「買い戻す」ということですから、神が、わたしたちを買い取って、ご自分のものとしてくださったのです。
それは神のご計画の中の働きですから、真理です。
それは、わたしたちに何か資格があって贖われたのではなく、神の一方的な選びによって贖われたのですから、恵みなのです。
そして、神はわたしたちを造られたのですから、わたしたちは神にとって思いは深く高価で尊い存在なのです。
だから救済されるのです。
救いが必要になったそもそもの原因は、神によって造られた人が、悪魔のささやきに騙されて神の手から離反してしまったことにあります。
神はわたしたち被造物の命の源ですから、その離反により、わたしたちは創造者から離れては生きていけないので、死ぬものとなったのです。
神はそのような人間社会に御子キリストを遣わし、わたしたちを見出し、悪魔の支配から救いだし、ご自分のひとり子キリストの血という代価を払って、再びわたしたちをご自分のものにされたのです。
「その血によって贖われ、罪を赦されました。」と、キリストの十字架による「贖い」が賛美されています。
「血」は十字架上の死を指しています。
この十字架によって贖われた「罪」は、複数形ですから、神の律法に違反する諸々の行為を指しているのでしょう。
ローマ書などを読むと、パウロが「贖い」というときには、原罪を指す罪(単数形)からの解放が多いですね。
そして、神はわたしたちを御子キリストの十字架という代価を払って買い取ったのですから、わたしたちはもはや被造物以上の存在、すなわち、神の子になったのです。
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