キリストにおいて一つになる(1)(2章)
聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙2章11節から22節です。
二回に分けまして、(1)は16節までとします。
●11節.だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。
著者は、2章1節から10節を受けて、「だから、心に留めておきなさい。」と呼びかけます。
そして、まずこの手紙の読者に、キリストに結ばれるまでの時期の姿を思い起こさせます。
「あなたがたは以前には肉によれば異邦人」ですから、この手紙の読者のほとんどは異邦人キリスト者なのでしょう。
解説では、エフェソを中心とするアジア州でのパウロの宣教活動は実を結び、パウロが去ってから後も弟子たちの働きにより福音は進展し、エフェソと周辺各都市にキリストの集会が形成され、この手紙が書かれる頃(おそらく80年代以降)は、集会に集う信徒のほとんどが異邦人であったと見られると言うことです。
「肉によれば」とは、もともとは、生まれながらの人間の本性のまま生きる様を指しているのですが、解説では、ここではユダヤ人ではなく異邦人のことを指しているのではないかということです。
手紙の著者は、ここでユダヤ人の事を「手による割礼を身に受けている人々」と言っています。
これは、ユダヤ人と異邦人の区別が割礼の有無で表現されていると言うことでしょう。
「手によって」身体になされた割礼と言う言い方は、「手によって(身体になされた)」という表現ですから、それは神との関わりのない、すなわち、霊的次元には無意味なものに過ぎないという気持ちが込められているのでしょう。
何か割礼を軽蔑しているような言い方で、根っからのユダヤ教徒であれば、割礼をこのように表現することはないと思います。
その様な者から、割礼のない者と「呼ばれて」も、その呼び方は神の前に何の意味もないのです。
●12節.また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。
著者はここで、異邦人、あるいは無割礼と呼ばれる者たちの、すなわち、割礼のない異教徒として、イスラエルの民に与えられていた特権をもたなかった事実が列挙されます。
「そのころは」と言うのは、(異邦人である)あなたたちはキリストに来るまでの時期においては、「キリストと関わりがなく」(すなわち、神の救いの業とは関係なく) 生きていました。
いわゆる、異邦人が自分自身のなすがままの状態に放置されていたと言うことでしょう(ローマ書1章18節から32節参照)。
まとめると、異邦人はかつて神の救いのみ業に関係なく(キリストに関係なく)、すなわち、「イスラエルの民に属さなかったので、」イスラエル人に与えられたさまざまな特権が与えられていませんでした。
神の救済の働きはイスラエルの中に進められていましたから、このように異邦人が神とキリストの救済の働きと無関係に放置されていた状態を「イスラエルの民に属さず」と表現しています。
イスラエルの歴史の中に進められた神の人類救済の働きと無縁であったということは、イスラエルに与えられた「約束の契約」の当事者にはされていなかったということでしょう。
「約束を含む契約」とは、神からイスラエルの民に与えられた約束(単数形)を内容とする諸々の契約(複数形、それらがイスラエルの歴史を形成する)を指していると言うことです。
もちろん、その「約束」とは、終わりの日に神の最終的な救済にあずかるという約束です。
神はイスラエルの民と契約を結ばれ、さまざまな約束を与えられましたが、あなたがたはその「約束を含む契約と関係なく」、すなわち、神とは無縁の存在でした。
したがって、異邦人であるあなた方には将来に対する確かな約束は何一つありません。
あなたがた異邦人が信じているのは神々と呼ばれるものであり、木や石にしかすぎないものでした、ということでしょう。
こうして以前の「あなたたち」は、神の救済の働きとは無縁な異邦人として、この世(時代)の悲惨な現実に放置され、「希望を持たず、神を知らず」生きていたと言うことでしょう。
ここの「希望」とは、将来の終末的栄光を待望するという意味の希望ではなく、むしろ神との関わり、すなわち御霊に満たされて生きる現実を指しているのではということです。
●13節.しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
あなたがた異邦人は、前節に書いたように、以前はキリストから遠く離れていたが、「今や、キリスト・イエスにおいて、つまり、キリストの血によって(神に)近い者となったのです。
「近い者となった」ことの中身は14節から18節で詳しく描かれています。
「以前は遠く・・今や・・近い」ですから、この13節は、以前の状態(11節から12節)と、キリストにある今の現実(14節から18節)を結ぶ位置にあると言うことでしょう。
●14節.実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、
通常聖書でいう「平和」とは、神とわたしたち一人ひとりとの間の問題ですが、著者はそのことをここでは、その神と人との平和がエクレシア(キリストの民の共同体)の和の土台になっているという事実を言いたかったのでしょう。
著者は、エクレシアを構成する二つの対立的なグループが、キリストの働きによって一つにされたことを「和」という語で言い表しているのでしょう。
著者が「キリストは二つのものを一つにし、「敵意という隔ての壁を取り壊」されました。
その二つのものは、エクレシアを構成するユダヤ人と異邦人という二つの民のことで、この二つの民をキリストの民という一つの民にされたことを指しているのでしょう。
これまではユダヤ人を異邦人から隔てるモーセ律法が「隔ての壁」となって、ユダヤ人と異邦人を対立させてきましたが、著者はその両者の対立関係を「敵意」の関係と呼んでいます。
「敵意」とは融和できない対立関係を指しています。
「隔ての壁」は、モーセ律法を指し、「キリストは御自身の肉において「敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」のです。
すなわち、様々な規定から成る戒めの律法を無効にされたのです(14節)。
キリストは、生贄として十字架で血を流され、そしてイエスの肉によって、(こうして、神の贖いの業が実現したことにより)ユダヤ人も異邦人も一つとなって、神を賛美し、礼拝することができるようになった、ということでしょう。
すなわち、キリストに所属することが神の民の唯一の要件でモーセ律法の諸々の規定の順守は神の民の要件ではなくなったと言うことでしょう。
●15節.規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、
ユダヤ人と異邦人を隔てる壁は、ユダヤ教の「規則と戒律ずくめの律法」です。そこには偏見と敵意があります。
そしてその隔てがないときに、それは平和であると言っています。
キリストはこの敵意を葬り去り、平和をもたらすために十字架につけられたのです。
「一人の新しい人」とは、ユダヤ人と異邦人が、キリストにあって新しい一つのからだになるということでしょう。
キリストに属する者になると言うことは、ユダヤ人が異邦人のようになるということでも、また、異邦人がユダヤ人のようになるということでもなく、ユダヤ人も異邦人もキリストのようになるのです。
「一人の新しい人に造り上げ」ですから、キリストにある新しい性質を身に着けた新しい人間になるのです。
●16節.十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
ここではキリストがご自身の死によって成し遂げられた、贖いの業の目的が語られます。
それは、「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼし」、両方の者を一つの体にして十字架により神と和解させるためでした」。
これはキリストが隔ての壁であり「規則と戒律ずくめ」にされたモーセ律法を無効とされた結果です。
歴史の中でのキリストの共同体の形成こそ、この手紙の著者にとって終末時の神の新しい創造の働きなのでしょう。
キリストによって、ユダヤ人と異邦人という隔てられていた二つの民が、キリストの民という一つの民にされたのです。
そして「和解」とは、この二つの民の対立関係が解消されて一体となり、その一体化された姿で神に近づくと言うことでしょう。
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