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2019年7月22日 (月)

前置き

この手紙は、パウロの名によって書かれていますが、用語と文体、および思想内容からして、パウロ自身の手によって書かれたものと受け取ることが困難とされています。

 

なお、パウロ自身の手によるとして、真正が問題とされない手紙は七書簡で、ローマ書、コリント書ⅠとⅡ、ガラテヤ書、フィリピ書、テサロニケ書Ⅰ、フィレモン書だと言うことです。

 

そのほかのパウロの手紙とされる、テサロニケ書Ⅱ、コロサイ書、エフェソ書などはパウロ以外の人物(パウロの協力者とか後継者)がパウロの名を用いて著した手紙であると見られています。

 

エフェソ書がなぜパウロのものとみられないかというと、パウロの福音の根幹である「信仰による義」が、本書ではほとんど扱われていなくて、あれほど問題にした「律法」は一度だけで、すでに克服されたものとして扱われている(2章15節)からです。

 

 

こういうことからこの手紙は、パウロが書いた物ではなく、パウロよりもかなり後のものではないかと見られているそうです。

 

なお、解説によると、コロサイ書とエフェソ書は構成・内容・用語の用い方がよく似ているとされています。

 

そのコロサイ書はパウロの手によるものとみられていますし、さらに、重要な概念や術語が両方で共通していることから、エフェソ書の著者がコロサイ書を用いてエフェソ書を書いたと見る研究者が多いということです。

 

したがって、この手紙の著者は、パウロの弟子で、エフェソを中心とするパウロ系の諸集会において指導的な立場で活動をしていた人物ではないかと見られているそうです。

 

この手紙の特徴は、手紙ですが個人に対する挨拶もなく、特定の集会の具体的な問題に触れることもなく、議論の内容もきわめて一般的な神学論になっているところです。

 

それで、本書は特定の集会に宛てられた手紙ではなく、キリスト信仰についての一般的な論説、あるいは広い地域の諸集会に回される勧告の回状ではないかと見られています。

 

成立の時期は、パウロ(六十年代に殉教)の没後、七十年代とか八十年代(70年にユダヤ戦争でエルサレム崩壊)ではないかと考えられています。

 

この手紙の内容から著者は、パウロの働きの後を受け継ぎ、アジア州の諸集会のキリストの民の確立のためにキリストの民の集会(エクレーシア)の奥義を徹底させ、実際上も共同体内の一致を実現するように強調し、異教社会とは異なる歩み方を進め、危機を克服しようとして筆をとったのではと考えられています。

 

なお、エクレーシアという用語は、キリストの民の集会の意味だと思うのですが、エフェソ書は単数形で、キリストの民全体を指しているそうです。

 

エフェソ書の著者は、いつもキリストの民の全体を一つとして見ていて、その民について御霊によって与えられた「奥義」を語っていると言うことです。

 

具体的には、2章20節から22節では、エクレーシアは使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたとし、土台の隅石はキリスト・イエスと言う意味だとしています。

 

だから、エフェソ書は使徒たちの働きをすでに過去のことと見ていると言うことです。

 

その他にも、エクレーシアをキリストの花嫁に喩えています(5章21節から33節)。

 

そして、創世記(2章24節)にある「夫と妻は一つの体になる」という宣言は、キリストとエクレーシアが一つに合わせられること指しているとしています。(5章31節から32節)。

 

さらに、エクレーシアは「人」すなわち、神がキリストにおいて新しく創造された「一人の新しい人」なのです(2章14節から16節)。

 

「一人の新しい人」は、「円熟した大人」になるまで成長するように定められており(4章13節)、その成長は「からだ全体は備えられたすべての関節によって組み合わせられ、かつ結合されて、それぞれの部分の分に応じた働きにしたがってからだの成長を遂げ」(4章16節)、頭なるキリストへと成長するとしています。

 

 

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