フォト
2023年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

« 神の恵みはキリストにおいて満ちあふれる(2)(1章) | トップページ | 死から命へ(2章) »

2019年7月26日 (金)

パウロの祈り(1章)

聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙1章15節から23節です。

著者は、前段において三位一体の神を賛美し、その賛美において、父なる神の人類救済のご計画として、キリストによる贖い、そして聖霊による証のしるしを述べました。

 

そしてここでは、この霊的祝福を主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与えることによって、神を深く知ることができるように、悟ることができるようにと祈ります。

 

●15節.こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、

 

手紙の著者は、長い祈りを始めます。

 

 

この節から1章の最後までギリシヤ語では一文になっているそうです。

 

聖霊に満たされカリスマ状態で、一気に祈ったのでしょう。

 

●16節.祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。

 

●17節.どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、

 

パウロの名による著者の最初の祈りは、「神を深く知ることができるように」(17節)、というものです。

 

「神を深く知る」と、わたしたちの日々の歩みは確かなものとなります。

 

ヨハネの福音書17章3節に、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とありますから、神を知るとはイエス・キリストを知ることだと言えます。

 

イエス・キリストは神を体現しておられる方ですからね。

 

しかし、神はわたしたちの知性では計り知れないものですから、いや、根源的に神から離反していて神を知る立場に無い者ですから、神を知ることはわたしたち自身の努力ではできません。

 

だから、この手紙の著者は、「知恵と啓示との霊」(17節)を与えて下さいと祈るのでしょう。

 

なお、神の霊は、神を深く知るのに必要な知恵と啓示与えて下さるのが、この「神を深く知る」とは、神を完全に知ること(それは不可能ですが)ではなく、神との関わりにおける事柄(世界や人間の現実など)を深く知ることと理解してよいのではと考えます。

 

聖書は神を証するものだと信じ、わたしたちはその聖書を学びますが、それは知的な作業であるというよりも、霊的な作業だと言えます。
聖霊の働きが無ければ、聖書が語る真理を知ることはできないと言うのが、前提です。

 

ですから、わたしたちも著者のように、聖書を読みながら「知恵と啓示との霊」を与えて下さいと祈り、御霊の声を聞く努力をしなければいけないと思うのです。

 

と言っているわたしは、どうしても技巧的な(自分で、努力して知ろうとする)方向に走りがちで困ったものです。

 

●18節.心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。

 

手紙の著者が、わざわざパウロの祈りとして書き残しているのは、エフェソの信徒というか、わたしたちキリストに属する者すべてに対し、もっとも必要だと強く感じている事柄だからと言えます。

 

その内容は、17節にあるように、「わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるように」、18節の「心の目を開いてくださるように」、「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」ということでしょう。

 

「聖なる者たちの受け継ぐものがどのように栄光に輝いているか」 とありますが、この受け継ぐものは神の国の相続のことで、やがて聖なる者たちが受け取る栄光のことですから、それは終わりの日の希望でもあるわけです。

 

その事態は、この世において御霊にあってはじまっているのですが、それはこの世の富とか栄光ではなく、時にはキリストのための苦難(十字架)も含みキリストに体現された神の栄光に与ることから来る霊的な富を指していると言えます。

 

その富の豊かさを認識すれば、わたしたちは喜びに溢れて神を賛美し、地上の生涯を力強く生きていくことができます。

 

そのことが「どれほど豊かな栄光に輝いているか」を知るために、目が開かれなければいけないと著者は言っています。

 

神からの御霊によらなければ、人間の理性の目では、神の事柄を深く認識することはできないのです。

 

●19節.また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

 

最後に手紙の著者は、その絶大な神の働き、神の力が「どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」と祈ります。

 

わたしたちが信じているのは全能なる神です。

 

イエスは、「人にはできないことですが、神にはできるのです。」と言われましたが、その力がいかに偉大であるかを知ってほしいと、著者はパウロの名によって願っています。

 

そして著者は「信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力」ですから、この力が聖霊によって信じるわたしたちのうちに働くと言っているのです。

 

●20節.神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、

 

●21節.すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
キリストを死者の中から復活させたのは神です。

 

復活があるということは、死があるということです。

 

わたしたちの新たな人生は、一度死んで復活することによって始まるのです。

 

神の全能の力を知るためには、まず自分が死ななければならない、ということです。

 

キリストを信じると言うことは、十字架につけられたキリストに合わせられて死ぬことであり、キリストに合わせられて復活することなのです。

 

それは神の全能の力、聖霊の働きに拠るのです。

 

神はご自分が全能の方であることを現わされるため、キリストを死者の中からよみがえらせられました。

 

わたしたちも、その力に期待します。

 

神はキリストを復活させ「天において御自分の右の座に着かせ、」られたのです。右に坐ですから、神に次ぐ位置です。

 

そして、「すべての支配、権威、勢力、主権の上に」とありますが、解説では、これは天使の階級を表しているそうです。

 

神に仕える天使もいれば、神に反逆する天使たちもいます。

 

これらの天使よりも、さらに高いところにキリストは着座されたということです。

 

さらに、キリストは、今の世、来るべき世において「あらゆる名の上に置かれました」(21節)とあります。

 

「あらゆる名」というのは、天の諸々の場所における「すべての支配、権勢、勢力、主権の上に(置かれた)」を指しているのでしょう。

 

「あらゆる名」というのは、地を覆う諸天(階層をなす霊界)の各層を支配する霊的存在を指す名ではないでしょうか。

 

つまり、キリストはすべての権能と権力をもっておられ、万物の頭(22節)となられたのです。

 

●22節.神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。

 

21節の、神はキリストを「あらゆる名の上に置かれました。」ということは、地を覆う諸天(階層をなす霊界)の各層を支配するのと同時に、「すべてのものをキリストの足もとに従わせられた」ことを意味するのでしょう。

 

神は万物をキリストの足の下に従わせられた上で、そのキリストを「すべてのものの上にある頭として」与えられたのです。

 

「教会にお与えになりました。」となっていますが、これはキリスト教会(聖職者による組織的な教会)であり、またキリストの民の集まる共同体を指すと思うのです。

 

したがって、キリストはキリストに属する民の集まりの頭であると言うことです。

 

ここで言っている「教会」は、建物があって、牧師とか神父がいて、組織があって運営されている目に見えるような単独の教会ではないのです。

 

その様な型にはまったものではなく、もっと、キリストの民の霊的な集まりの集会全体、あるいは共同体を指して言っているのでしょう。

 

教会のギリシヤ語はエクレシアであり、「呼び出された者」「召された者」という意味です。この世から神に召し出された者たちが集まるのが、教会です。

 

●23節.教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

 

キリストが万物の存在意義を満たすという意味で「すべてにおいてすべてを満たしておられる方」ですから、今の世と後の世において、すべて
を満たしておられるキリストが、頭としてキリストの民の共同体を統御しておられるという事実が、手紙の著者が見ている「真理」であり「奥義」であるのでしょう。

 

最後に、わたしたちは日頃いろいろと神に願いますが、神が全能と言っても、わたしたちが願うままにご計画を進めておられるのではないと思います。

 

神にはご計画があり、わたしたちとの契約があります。

 

そのご計画や契約に反して事を行なわれることは無いと思います。

 

祈りは、その御計画や契約に沿っている限り叶えられるのではと思うのです。

 

キリスト教はご利益信仰ではありません。

 

神は一定の法則や契約のもとで、その全能の力を働かせます。

 

そして、神は、わたしたち信者に対して働かせている力は、キリストをよみがえらせたところの復活の力、」すなわち、神の力であります。
その力はエネルギーであり、聖霊であり、神の言葉と共に働きます。

 

« 神の恵みはキリストにおいて満ちあふれる(2)(1章) | トップページ | 死から命へ(2章) »

エフェソの信徒への手紙を読む」カテゴリの記事

コメント

 失礼します、いつも拝見しております。この記事と何の関係もない事ですが、おじさんは丁寧に奥深く聖書を研究されておられるのでお尋ねするのですが、昨今この日本でも姓の多様性と称しLGBT等同性婚容認の風潮がありますが、小生は聖書の教えに照らして受け入れがたく感じます。まじめの物事を考えておられるおじさんのお考えはどうですか?

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 神の恵みはキリストにおいて満ちあふれる(2)(1章) | トップページ | 死から命へ(2章) »