死から命へ(2章)
聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙2章1節から10節です。
●1節.さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
●2節.この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
1節の「過ちと罪」は複数形ですが、ここでは、律法の諸規定に対する違反行為ではなく神に背く生き方の多様性を指していると考えられています。
そのような生き方は、「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者」に働く不従順な霊(21節)に従って歩んでいる生き方だと言っているのでしょう。
不従順な霊とは、悪魔とか悪霊を指しているのでしょう。
●3節.わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
2節の神に背いている人間の生き方の状況が、ここでは「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて」と、キリスト者一般の事柄とされています。
そこには、キリストに属する「わたしたち」も皆、今でこそ違った者になっていますが、かつては、皆「こういう者たち」(不従順の子ら)の中にあって、「肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していた」、また、「ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者」であったのです。
●4節.しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、
●5節.罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
「神は、・・その愛によって・・罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、」てくださったのです。
1節から7節を通して、主語が神で,述語動詞が「共に生かしてくださった」(今も生かされている)で、目的語が、「もろもろの違反によって死んでいるわたしたち」です。
この「わたしたち」は一節で呼びかけられていた「あなたたち」を含む、今はキリストに属する者になっている「わたしたち」のことでしょう。
「生まれながら神の怒りを受けるべき者」(3節)で、罪のために死んでいたあなたがたを含むわたしたちをキリストと共に生かしてくださったのは、「憐れみ豊かな神」であり、「わたしたちをこの上なく愛して」下さったから、「その愛によって」「恵みによって」なのです。
恵みとは、わたしたちが救われて現在神の民として生きているのは、わたしたちの側には何の根拠、資格、功績もなく、ただ神の憐れみ、また絶大な愛ゆえの出来事だと言うことでしょう。
わたしたちはただ一方的で無条件の恩恵によって救われているのです。
●6節.キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
さらに、ただ恩恵によって救われたわたしたちを「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」のです。
それはキリストの属する者がこの世で生きる希望でが、その希望が御霊によってすでに現実になっている事態です。
この5節から6節の「生かす」、「復活させる」、「座に着かせる」の三つの動詞がみな未来形ではなく過去形だと言うことです。
そう、過去形ですからこれら三つの出来事がすべてすでに実現しているのです。
それはとりもなおさず、現在わたしたちが御霊によってもたらされた復活の新しい命を生きていることであり、その事態を「キリスト・イエスによって共に(えあたしたちを)復活させ」と表現しているのだと思います。
●7節.こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。
6節の神は「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」に対応させて、ここではその目的が語られています。
神は、キリスト・イエスにおいて・・慈しみにより」このように復活者キリスト(御霊に満たされて)と一 緒に復活の命に生きるようにされたのは、恩恵の出来事であることを、「神は、・・来るべき世に現そうとされた」と表現しているのでしょう。
「来るべき世に現そうとされた」の「来るべき世」とは、地上の人間の歴史においてこれから生まれる諸々の時代を指しているのでしょう。
その諸々の時代を通して、代々のキリストに属する者に復活の命に生きる恵みを現わされるのです。
そのような形でキリストの民が歴史の中に歩むのは、言い換えれば、歴史におけるキリストの民の存在理由は、神の恩恵の体現者であるからと言えます。
キリストの民は、神の慈しみによる豊かな恵みの体現者として、神の「限りなく豊かな恵み」を、人間の歴史の諸々の時代において証言することだということでしょう。
●8節.事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
手紙の著者は結論として、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われ」ているのですと言って締めくくります。
そして、著者は同じことを、「このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 」と繰り返します。
救いは人間の働きの報酬として与えられるのではなく、働きとか資格のない者に与えられる神の賜物です。
●9節.行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
さらに念を押すように、「行いからではありません。
それは 誰も誇ることがないためです」と、同じ意味の事を三度も念を押すように繰り返します。
●10節.なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
この10節の背景には、「行い」は、日常の生活の中での振る舞い一般を指すことになると思いますが、救いは行いによるのではなく神の恩恵によるとすると、キリストにあって恩恵によって救われている者はよい行いをしなくてもよいのだという誤解をする者が出てくるおそれがあるからでしょう。
著者は、その危険を予防して、「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。」と恩恵と善い働きとの関係を明確にします。
つまり、わたしたちキリスト者は神が制作された作品であり、制作者である神がキリストにあってわたしたちを新しく造られた目的は、善い働きをさせるためであり、それにふさわしい形に造られたのです。
しかも、その善い働きは「神が前もって準備してくださった」ものだということです。
その善い働きをするためにわたしたちキリスト者は救われたのであり、存在するのです。
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