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2019年3月27日 (水)

ローマ訪問の計画(15章)

聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙15章22節から33節です。


●22節.こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。


「こういうわけで」というのは、14節から21節でパウロが言っているように、異邦人への使徒としての使命から、「キリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせる」働きを果たさなければならないという事情を指しているのでしょう。


「何度も行こうと思いながら、」ですから、そういう事情があるがローマを訪れることはすぐにはできなかったと言い訳しているのでしょう。


「妨げられてきた」と言っていますから、その事情は、騒乱や反対運動に妨げられたことで、そのために何度も進路を変えざるを得なかったことを指しているのでしょう。


●23節.しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと切望していたので、


「この地方」を調べてみると、エルサレムからイリリコン州(現在のクロアチアあたり)までの地域、すなわちローマ帝国の東半分の地域のことだと言うことです。


パウロは、ローマ帝国の東半分の地域での宣教の働きを終えて、積年の望みをかなえるためにこの手紙をコリントで書いているのでしょう。
「今は、もうこの地方に働く場所(福音のために働く場所)がなく、」といっています。


ローマ帝国の東半分での使命を果たしたので、今は西に、つまり念願のローマで働く時が来たと言うことでしょう。


●24節.イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あなたがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。


パウロはまずイスパニアに行くと言っています(28節)。


その途中でローマの教会を訪ねたいと言っています。


解説によれば、ここは断定して言っていないので、イスパニアに行こうと望んでいるが、主が許してくださるならば(状況が許すならば)実際に行くことになると言うことではないかということでしょう。


しかし、「途中であなたがたに会い」と控えめですが、これはローマの集会は初めて行く集会で、自分が建てた集会ではないからでしょう。
「あなたがたに会い」は、今回はローマで宣教活動をする予定がなく交わりを求めているのでしょう。


「イスパニアへ向けて送り出してもらいたい」ですから、パウロはイスパニア伝道という大きな計画に、ローマの集会に背後からの支援を期待してこのように言っているのでしょう。


●25節.しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。


パウロはこの手紙をコリントで書いていますから、イタリア本土はすぐそこでローマは目の前です。


ところが、「しかし今は」と、正反対の東に向かい、はるか遠くにあるエルサレムに向かって出発しようとしています。


前節の文体から見て、どうしてもローマより先にエルサレムに行かなければならない事情があるのでしょう。


「聖なる者たち」というのは、ユダヤ人信徒で構成されるエルサレム共同体を指し、そこは、イエスの直弟子11人が最初に立ち上げ所属する集会ですからね。


「仕えるために」というのは、具体的には異邦人の集まる諸集会で集めた献金を手渡すことを指しているということです(28節参照)。
これがエルサレムに行かなければならない事情ですね。


当時のエルサレムの集会は、信徒は財産を持ちより共同生活をしていましたが、持ち寄ったお金も乏しくなり、貧しい信徒が増えて経済的に困窮していたと言うことです。


●26節.マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。


エルサレムに行くのは、マケドニア州(フィリピ、テサロニケ、ベレア)とアカイア州(コリント)の人々が、「エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意した」ので、その人たちの献金を手渡しに行くと言うことでしょう。


エルサレムの集会への資金援助は、エルサレム会議の要望に応える救援活動でしょうが、異邦人共同体の面目躍如というところでしょうか。
●27節.彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。


「彼ら」というのは「マケドニア州とアカイア州の人々」のことでしょう。


「義務もある」というのは、異邦人信徒(ユダヤ人以外のキリストの民)たちは、エルサレムのユダヤ人信徒たちに霊的な「負い目がある」あるからです。


「霊的な負い目」というのは、イエスの直弟子11人とその周囲に集まったユダヤ人信徒で構成するエルサレムの集会があるイスラエルは、旧約聖書を生み、イエスを生み、イエスの言葉や働きの伝承(イエス伝承)とか復活者したキリストの体験と告白(キリスト伝承)を保持する共同体であるからです。


いわば、キリスト信仰の発祥地であり、本家本元なのです。


異邦人集会にとっては、そのエルサレムの共同体あってのキリスト信仰であり、異邦人集会なのです。


そのような中で、エルサレムの共同体によって霊的に救われたと言う現実があるから、「そうする義務もある」とか「霊的なものにあずかった」と書いているのでしょう。


そうであるならば、異邦人は霊的な意味でエルサレム集会のユダヤ人信徒に負い目がある立場ですから、「肉のもので」である物質的なもので、具体的には、金銭の援助で奉仕するという負い目(義務、責任)があるということになります。


●28節.それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。


「このことを済ませてから」とは、エルサレムへ行き、「募金の成果」である異邦人諸集会から集めた援助の献金を確実に手渡した後で、「あなたがた(ローマの集会)のところを経てイスパニアに行きます。」と言うことでしょう。


解説によると、「確実に手渡した後」と言っていますから、この献金がエルサレムの指導者たちに問題なく受け入れられるかどうかについて、パウロが不安を感じていたのではないかということです。


●29節.そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思っています。


「キリストの祝福をあふれるほど」ですから、キリストの使徒として受けてきた祝福ですから、御霊の賜物とも言います。


●30節.兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、


パウロは、ローマの兄弟たちに「兄弟たち」と呼びかけ、「わたしたちの主イエス・キリストによって」、すなわち、同じ主イエス・キリストに属する者として、「“霊”が与えてくださる愛」によって一緒に祈るように願い求めます。


「わたしのために」というのは、解説によると、パウロが危険から救われるようにという個人的な願いだけではなく、福音のための課題、すなわちユダヤ人と異邦人からなる一つの共同体の形成という課題の実現のための祈りも含んでいるのではないでしょうか。


●31節.わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、


「ユダヤにいる不信の者たち」とは、イエスをキリストと認めないエルサレムと周辺地域のユダヤ人たちということでしょう。


そのような危険なエルサレムに入るので、危険から守られなければなりません。


さらに、「奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように」ですから、命がけで持参した異邦人集会の献金が、エルサレムの「聖なる者たち」に「歓迎されるよう」に、すなわち、受け入れてもらえるかは不確かであるから受け入れてもらえるように祈ってくださいと言うことでしょう。


なぜこのように異邦人集会の献金の受け入れを気にかけているかと言いますと、エルサレムの教会にとって、献金を受け入れると言うことは、異邦人集会の「無割礼の福音」を認めることになるからと言えます。


イスラエルのユダヤ人(キリスト教徒)にとって割礼は、絶対に必要なことであったので、異邦人がイスラエルの神を信じ救われるためにはユダヤ人同様必要だとして、割礼を受けることを求めていたのです。


ところが、異邦人の集会は、特にパウロは無割礼でも救われると主張していたので、そのことで対立があったからでしょう。


●32節.こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。


●33節.平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。


パウロは、31節にあるようにエルサレムのユダヤ人キリスト集会に献金をもっていくのにいろいろ問題があるので、そのことが「神の御心によって喜びのうちに」行けるように、そして、あなたがたのいるローマに到着し、「あなたがたのもとで憩うことが」できるように祈ってもらいたいと願っています。


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