個人的な挨拶(2)(16章)
聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙16章17節から24節です。
●17節.兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。
パウロは、何か心配事をもっているのでしょう。
手紙の最後に「あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々」に警戒しなさいと付け加えています
これまで気になりながら明言してなかった心配事を、最後に書かないではおれなかったのでしょう。
その心配事である「あなたがたが学んだ教え」とは、伝えられて学んだ「教え」(教えの規範ともいわれています)ですから、福音の基本的な内容を指しているのでしょう。
このような福音の基本的な教えに反した教えを持ち込んで、「不和やつまずきをもたらす人々」は、集会内での異なった意見を持つ人たちや批判する人たちを指すのではなく、外から入ってきて、「異なる福音」によって集会を分裂させ、信徒をつまずかせようとする人たちを指しているのではないでしょうか。
●18節.こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。
「自分の腹に仕えている。」というのは、「腹」ですからユダヤ教の食事規定を順守することを至上の価値とすることだとする解釈もありますが、自分のこの世的な欲望を満たすことを目的にして宗教活動をすることと理解するのが順当ではないでしょうか。
彼らは神の真理ではなく、人を喜ばすだけの「うまい言葉やへつらいの言葉」によって、「純朴な人々の心を欺いている」と警告します。
●19節.あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。
パウロは、伝えられた教えに「心から従う」ことが救いだとしています(6章17節)から、「従順」が「信仰」とほとんど同じ意味で用いられています。
ローマの兄弟たちがこの意味の「従順」において評判を得ていることをパウロは賞賛しますが、「なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。」と願います。
この場合の善とか悪は倫理的なものではなく、「善」は福音の真理のことであり、「悪」は偽りの教えを指しているのではということです。
●20節.平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
「平和の源である神」という表現は、15章33節でも使われています。
パウロは、外から入り込んできて「不和やつまずきをもたらす人々」(17節)を、「サタンに仕える者」と呼んでいます(コリントⅡ11章13節から15節参照)。
サタンは、神に敵対し、神の業を砕こうとします。
「平和の源である神が・・サタンを・・打ち砕く」というのは、神が終末時に蛇であるサタン(創世記3・15)を打ち砕いて、地上に最終的な平和をもたらされることを指しているので、パウロもこの意味で用いているのでしょう。
●21節.わたしの協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。
●22節.この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。
●23節.わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオが、よろしくとのことです。市の経理係エラストと兄弟のクアルトが、よろしくと言っています。
●24節.<底本に節が欠けている個所の異本による訳文> わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように。†
最後にパウロは自分の同労者(協力者とか同胞)たちからの挨拶を加えます。
テモテはパウロのもっとも近しい同労者ですが、このように最後に名前を上げたのは、テモテはローマの集会には知られていないからでしょう。
ルキオ、ヤソン、ソシパトロらは、パウロの「同胞」ですから、すなわちユダヤ人でしょう。
「この手紙を筆記したわたしテルティオが・・挨拶します」と言うことは、パウロはこの手紙を自分で書いていないのです。
テルティオがパウロの言葉を口述筆記で書いたということでしょう。
筆記者がわざわざ名前を出して挨拶するのは珍しいです。
おそらく、テルティオはローマの集会の人ではよく知られた中心的な人物であったのでしょう。
なお、「テルティオ」という名は奴隷または解放奴隷に典型的な名だと言うことです。
次に「わたしと集会全体が世話になっている家の主人ガイオ」の挨拶が出てきます。
ガイオは、パウロがコリントで伝道したとき、自身でバプテスマを施した信徒の一人です(コリントⅠ1章14節)。
ガイオはかなりの資産家で、パウロ一行もこの家で世話を受け、ローマ書もガイオの家で書いているのではと言うことです。
「市の経理係エラスト」のエラストという人物は、コリントの発掘で、エラストという名の市の経理担当職の人物がこれを寄進したという銘のある一世紀半ばの街路舗装タイルが発見されているということですから、実在することが確認されています。
「兄弟のクアルト」は、主にある兄弟ではなく、エラストの肉親の兄弟のことだろうと言うことです。
「クアルト」という名も奴隷または解放奴隷に典型的な名だと言うことです。
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