前置き ローマの信徒への手紙
ローマの信徒への手紙の著者パウロの晩年(殉教に至るまで)は、諸説あってよくわからないそうです。
使徒言行録もローマ帝国による軟禁状態で終わっています。
判決も処刑があったかどうかも書かれていません。
使徒言行録の著者ルカは、そのことを知りながら書かなかったのか、書けなかったのかも不明です。
殉教した年度も、聖書学者M.ヘンゲルはローマで紀元64年ころ、新共同訳新約聖書注解の年表では紀元60年頃、岩波キリスト教辞典年表では、紀元64~67年頃とまちまちです。
いずれにしても、ユダヤ戦争(紀元70年にイスラエル崩壊)以前です。
「ローマの信徒への手紙」ですが、手紙となっていますが、内容は手紙に見えません。
でも手紙の形式通り、冒頭に差出人の名前と宛先があり、挨拶があり、結びがあります。
読んでみると、内容は単なる手紙ではなくパウロのイエス・キリストの福音(復活したイエスとの出会いを起点とした福音)そのものだと思います。
そしてこの手紙が書かれたのは、四福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書)より前(紀元55年か56年)に書かれたのではということです。
書かれたのはイエスの十字架死から約25・6年後ですから、イエスの出来事を直接見聞きして知っている人たちがまだ多く生きていた時代です。
四福音書で最も早く書かれたのはマルコの福音書で、明確ではないのですが紀元60年から70年ではないかと言われていますから、それより早いのです。
パウロはアンティオキアのキリスト共同体に所属していましたが、そこから離れて独立で約16年にわたってキリストの福音を宣べ伝える活動をするのですが、その活動範囲は、アジアやガラテヤなど小アジアの諸州と、マケドニアやアカイアなどギリシアの諸州ということです。
そして、パウロはローマ帝国にもキリストの福音を述べ伝えることを願っていました。
だがいろいろな事情に妨げられて、それはなかなか果たせませんでした(1章13節、15章22節)。
しかし、晩年ローマの監視下にありながらも皇帝の前で裁判を受けるまで、約二年間「自費で借りた家」に住まい、訪問する者には、囚人でありながら自由にキリストの福音を宣べ伝えるのですが、その時の様子が使徒言行録28章30節・31節で次のように書かれています。
●30節.パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、
●31節.全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。
パウロの他の手紙がすべて、自分が創設した共同体に指導者としての立場で書いているのですが、この手紙は、自分が創設に関わっていないイスラエルの共同体に対して書いているところに特徴があります。
この手紙によってパウロは、まだ会ったことのないローマの信徒たちに、自分の福音理解を事前に提示して、自分がローマに着いたときに受け入れられ支援されるように期待しているのだと思います。
ローマのディアスポラ(離散したユダヤ人)が集まるユダヤ人教会堂には、ユダヤ人だけではなく、「神を敬う」異邦人(異邦人のユダヤ教徒、異邦人とはユダヤ人以外の人々のこと)も集まっていましたので、異邦人へのキリスト信仰は、まず「神を敬う」異邦人に受け入れられて、異邦人社会に波及して行きます。
従って、パウロのこの手紙がローマの信徒に送られたときには、すでにローマにはキリストの民の集会があり、その集会は多くの離散ユダヤ人(ディアスポラユダヤ人)と異邦人のキリストの共同体になっていたと見られます。
パウロは、まだ見ぬローマの信徒に対して、異邦人の使徒としての自分の福音理解を受け入れてもらいたいという願いからこの手紙を書いたのだと推察されますが、それは、この手紙の中で繰り返し出てくる「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、」(1章16節、2章9節・10節ほか)という言葉に、パウロのその願いが滲み出ていると思うからです。
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